ビター ビター チョコレイト


世間も騒ぐ、その日は2月14日。
2年のこの夏、部長に就任し、名実共に氷帝テニス部の顔となった跡部景吾の教室は朝から千客万来である。
机の上は色とりどりの包みが山積み。興味なさげにそれを掻き分けて跡部はバッグを取り上げる。
――下らねぇ。
後で一年の……そう、樺地にでも手伝わせてどうにか処分しよう、と積み上げたチョコレートをそのままに跡部は教室を出た。
部室に向かう途中の階段下。
ひと気の無いそんな場所に、見慣れた姿を見出す。
「かば、」
声を掛けかけて止める。眉を寄せる。
のっそりした長身の一年生は些か困ったように身を縮めている。その樺地の背中の向こうに 丁度隠れるように立っていたのは小柄な女子生徒。
……校章の色からして、同じ一年生か。
内容までは聞き取れないが、少し高めの細い声に樺地が頷いているのが見えた。
やがて彼女が何度も頭を下げて去って行った後には、淡いピンクの包みを掌に載せた樺地。 背中を見送って、
それから、
丁寧に、大切そうに、その包みを鞄に仕舞った。
ゆっくりと部室に向かって歩みだす樺地の背を眺め、跡部は眉を顰めて乱れてもいないマフラーを荒い手つきで巻き直す。
――なぜか、酷く不愉快で。



その日は練習にも全く身が入らなかった。苛立ちのまま、いつもの倍は身体を動かしているのに、 思考はいつもの半分も働きはしない。
この不愉快な感情の理由さえ跡部は分からないで居る。
いつもは身の近くから離した事の無い樺地と、今日は一度も言葉を交わしてさえ居ない。
「けーご」
「……うるせぇ」
水飲み場でかけられた声にぴしゃりと返した。
「なんや、自分ごっつ機嫌悪いなぁ」
おお怖、と揶揄するように言って忍足が首を竦める。
「……おまえに関係ない」
剣呑な返答を残して踵を返そうとした跡部の腕を忍足が掴んだ。
「冷たいなぁ。関係あらへんて、そんなモロ不機嫌丸出しにしてたら気になるやん」
「おまえと話してる気分じゃねぇんだよ」
「相変わらずの我儘さんやなあ自分」
呆れ声にカチンと来て、
「一年生怯えてるし。そないにカリカリしてんから、樺地も寄れんねやんか」
怒鳴りつけようとした隙間にそんなことを言われて口を噤む。
「なんかな、さっきからめちゃ景吾んこと見てるやん?自分、気づいてるんやろ」
「―――――知らねぇよ」
嘘だ。
さっきから遠慮がちにこちらを見てくる視線を、跡部はずっと拒み続けている。
「なんか話あるんちゃうの」
可哀相やん、と宥める忍足の声が癇に障る。
結局それが言いたかったのかよ、と。
腹を立ててるのはこっちの方だ。
「俺の方は話なんか無ぇんだよ。……あいつのことなんか知ったことか」
吐き捨てる跡部に溜息をついて、
「……景ちゃん」
やけに優しく名前を呼んだ忍足の声に苛立ちを煽られる。
「うるさい」
殆ど怒鳴るように言って腕を振り払った跡部の肩を忍足が柔らかく叩く。
「景吾、……そういうトコもまあ可愛いねんけど、……阿呆やなぁ」
苦笑した忍足は軽く髪の毛に触れてからすれ違っていった。
なんのつもりだ。
酷く頭に来て、跡部は腹立ち紛れにタオルを投げ捨てた。濡れた土に塗れて汚れたそれは、今まで以上に気を滅入らせた。



立春を過ぎて幾らか長くなり始めた陽も既に落ちた。先刻まで数人残っていた部員も 三々五々帰路につき、比較的広い部室内に残るのは跡部独りである。
樺地は何時ものように跡部が書き上げた日誌を職員室の榊のところまで届けに行っている。
先に帰ろうと思っていた。が、鞄に突っ込んでいた本を広げて跡部はベンチに腰掛けている。
未だ苛立ちは納まっていなかったが、忍足の言葉が気にかかっていないわけではなかった。
「……ウス」
扉が開き、戻ってきた樺地が静かに会釈した。
「……遅ぇよ」
前にのっそりと立った樺地に声を投げて、ふらりと文庫本のページから目を上げた 跡部の目に入ったのは、リボンとハートの渦。
恐らくチョコレートと思しき箱が、樺地の抱えてきた紙袋には山ほど詰まっている。
「俺の教室寄ってきたのか」
尋ねると樺地はふるふると首を横に振る。
「アーン?おまえが言付かってきたのか?……余計なことしやがって」
跡部と樺地がなにかと一緒に居る事は学校中に知れ渡っていることである。 そのため、直接跡部に手渡す勇気がなかった女子生徒は樺地を掴まえて渡してくれるように頼んだらしい。
言いたい事ってそれかよ。途端に興味を失って跡部は舌打ちする。
「要らねーよ」
面倒くさいとでも言いたげに本を閉じて机の上に投げ出す。
「適当にそのへんの箱にでも詰めておけよ。そのうち誰かが食うだろ」
部室中央に置かれた大きなダンボール箱を顎で示す。それは部員共通のチョコレート入れである。
テニス部員、特にレギュラーは毎年食べきれないどころか持ち帰りきれないほどのチョコレートを貰う。
ゆえに、実際に持って帰るのはせいぜいがニ、三個で、残りはこうやって部内のダンボールに 詰めておくと、部員の中で甘党の人間――岳人やジローあたり――が平らげてくれるのである。
「……ウス」
素直に頷いて、言われたとおり大きな紙袋から樺地が包みをダンボールへと移していく。
その時、
大きな手の間から、ころり、とピンクの箱が落ちてきた。


跡部は顔を顰める。
その包みにははっきりと見覚えがあった。
この日跡部を不機嫌極まりなくさせている原因の、――こんなちっぽけな箱ひとつが。
「…………それ、おまえのだろうが」
部活の前、樺地が女子生徒から手渡されていたチョコレートだった。拾い上げた樺地がおずおずと跡部に差し出してきた。
「……おまえが貰ったんじゃないのかよ」
樺地はまたふるふると首を横に振る。それを跡部が睨み上げている。
「俺に、預かったのか?」
なら、なんだってあんな、
嬉しそうな顔をして受け取った?
「……要らねぇよ」
唇が歪む。
目を見開いた樺地の表情がそれを咎めるようで、あの不愉快さが戻ってくる。
「捨てとけよ。そんなの要らねぇ」
顔を背けて言い放つ。
「……跡部さん」
低くくぐもった声で名を呼ばれて、ささくれだつ心はますます逆撫でされて。
目線を合わせるように身を屈めて、
――なんだってそんなに、一生懸命それを差し出してくるのか。
今まで一度だって、跡部に反論したことなどない樺地が。


ああそうだ。
樺地は、あの女が好きなんだ。


不意に落ちてきた答え。
多分、あの場面を見たときから分かっていたこと。
「……ス。」
半ば強引に掌に載せられた目の前の包みを睨む。
「……」
好きな女から、別の男宛てに言付かったチョコレート。自分だったら捨てて しまいたいだろうそれを、これほど一心に手渡してくる。
役に立てることが、嬉しいのだとでも?
それは樺地らしいとも言えたけれど、跡部の感情は濁るばかりで。
「……食えって言うのかよ」
半ば引き裂くように包装紙を開く指が不安定に震えて仕方が無い。
手作りらしく素人くさいラッピングだが、それでも丁寧に施された包みを開くと、中からこれも手作りらしいトリュフ。
睨む。
ココアパウダーで飾られたそれは、不愉快なくらいに申し分の無い出来栄えで。
じっと見つめてくる樺地の視線を感じながら摘み上げれば、目の奥が熱く痛んだ。
なんでおまえ、そんなに。
――そんなに、俺にどうしても食べさせたいくらいに、そいつの望みを叶えてやりたいくらいに、
その女が好きか?
口の中に落とせば樺地がほっとしたように目を穏やかにするのがわかった。
舌先で溶けたチョコレートは確かに滑らかな甘さの筈なのに、今は酷く苦くさえ思われる。
「……不味い……」
顔を顰めた跡部に樺地が身を強張らせる。心配そうなその仕草が、いちいち跡部の目の奥の熱を上げてやまない。
「こんなもん食えるか」
低く吐き捨てるように言う。
樺地が目を見開く。
そんな顔してんじゃねーよ。
苦い 苦い 苦い 苦い 苦い。
嚥下するのがやっとの、それ。
こんなにものを食べるのが苦しいと思ったことなんかない。
今までこんな苦さを跡部景吾に味わわせた者なんかいないのに。
「そんなに惜しいなら、おまえが食え」
その女がそんなに好きなら。
突き出したチョコレートの包みを前にして、樺地がひどく哀しそうな目をした。ますます何処かが痛んで、
「おまえが食えよ!」
頑是無い子供のように言い募った。
舌先が震えるほど苦くて、痛くて、跡部は唇を歪める。
こめかみが痛むほどきつく唇を噛んだ。
苦い 苦い 苦い 苦い 苦い           痛い。
がつ、と手を伸ばして樺地の襟首を掴む。
睨み上げて、
箱に残っていたもう一粒のチョコレートを口にする。


「…………ウ、」
引き寄せて滅茶苦茶に合わせた唇の間で、樺地が低く呻いたのが聞こえた。
硬い唇をこじ開けて舌先に載せたチョコレートを無理やりに押し込む。
熱に、繊弱なチョコレートははらりと溶けてふたりの口腔を甘く満たした。
「…………不味い」
襟元を掴む手が震えてひどく腹が立った。
「こんなもん、食わせてんじゃねぇよ」
突き放して立ち上がる。
耐えられないくらい、
痛くて苦くてつらくて寂しい。
視界が歪むほど悔しいと思ったことなどなかったのに。
身を強張らせたままの樺地を乱暴に押しやった。
帰るぞ、といつものように声をかけることはせずに、跡部は鞄を取り上げると黙りこんで部室を出て行く。


舌先が麻痺している。
熱を孕んだ目の奥が騒ぐのは腹が立っているからだ。
……多分。
そうだ、俺に樺地なんか、要らないはずなんだから。


―――――――要らない、筈なんだから。


◇◆◇◆◇    ◇◆◇◆◇    ◇◆◇◆◇    ◇◆◇◆◇    ◇◆◇◆◇


「なぁ景ちゃん、そろそろやんなぁ」
「アーン?」
わくわくした口調でかけられた忍足の声に、こいつはなんだっていつも 楽しそうなんだろうと思い乍らおざなりに返事する。
三年になって部活も引退したというのになにくれとなく忍足は付き纏ってきて、 今日も放課後、はるばる隣の校舎にある跡部の教室まで遊びに来ているのである。
「うわ、めちゃつれないやん。ほらほら、そろそろ来るやろ、例の」
「……何だ」
ようやく雑誌から目を上げて跡部が尋ねる。
「バレンタインやん。今年は中学最後やしー、結構盛り上がるん違う?」
「バレンタイン?」
下らねぇ。
一蹴されることを予想していた忍足は、
黙り込んだ跡部の様子に眼を丸くした。
うわ。
赤くなってる景吾なんか初めて見た。
何を思い出したのか、やぶ睨みに眼を眇めた跡部は耳まで朱に染めている。
「く…………だらねぇこと言ってんじゃ、ねぇよ……」
ぽかんと口を開けていた忍足の視線に気づき、我に返って立ち上がる。
「子供じゃあるまいし、」
動揺を見られたことが悔しいらしい。
口早に言って顔を背けた跡部は再び息を飲んで口を噤んだ。
うわ。
なんやねんコイツラ。
忍足は内心天を仰いだ。いつのまにか、部活を終えて教室まで迎えに 来たらしい樺地が、いつもの無表情を微かに紅潮させて入口で棒立ちになっていた。
不気味だ。
触らぬ神に祟りなし。
そんな言葉が脳裏に流れて、忍足は気づかないふりを決め込むことにした。
「……け、景ちゃん、樺地来よったで。――久しぶりぃ樺地。部活頑張っとるか」
ぎこちない声をかけて、手を挙げて見せたり。
その間にどうにか正気を取り戻したらしい跡部が、大きく息を吐いた。
「…………………………帰るぞ、樺地」
「………………ウス。」
ぎくしゃくと忍足に挨拶をして、共に教室を後にする二人の背を見送る。


「不気味ィ……」
ひそりと呟いて、忍足はそれ以上考える事を放棄した。


跡部二年生のバレンタインから一年間。
ふたりの間になにがあったのか、知る者は居ないけれど。
今日も跡部の一歩後ろには、ひそりとつき従う樺地の姿が在る。

<終>


ステキですね〜跡樺。何と言っても跡樺!
ありがとうございましたv