デルタ



中嶋英明は、実に変わったタイピングの仕方をしている。
いや、正確に言うとタイプの仕方ではなく、タイピング中の視線の動きが変わっているだけなのだが。

まずは、自分のパソコンのディスプレイを見ている。
それから、向こうにいる会長の丹羽が書類書きをさぼっていないか、まめに監視。
そのあと、丹羽の座席のほぼ真上にある掛け時計を眺めて、残り時間をチェック。
そしてまた、ディスプレイに視線を移すというわけだ。
別に向こうの掛け時計を見なくとも、ディスプレイの隅にも、自分の腕にも、時刻を 表示するものはあるのだが、こうやって、視線が三角形に流れるのが癖になっている。
だから、そうしてベルリバティ学園学生会副会長、中嶋英明は締め切り間際の書類を書いている。
いい加減、締め切りギリギリまで仕事をサボるのはやめてほしいと思いながら。

「ヒデ。」
見るからに退屈そうに、丹羽が向こうから声をかけてきたので、中嶋は視線を外さずに、
「何だ。」と答えた。すると彼からは予想通りの問いかけ。
「ちょっと休憩しねぇか?」
自分も休憩に誘ってはいるが、明らかに休みたいのは彼、丹羽自身である。
それが中嶋も分かったが、休み無しに仕事を続けても効率は上がらないことを知っているから、 手を止めて「そうだな。」と答える。
すると丹羽は、しっぽを振る大型犬のように嬉しそうな様子で、立ち上がった。
おそらく、ずっと黙って書類書きをしていたから、息がつまる思いだったのだろう。
そういった仕草が可愛いと、中嶋はいつも思っている。口には出さないが。

「何か、飲むもの淹れるな〜!俺がやるからよ!」

丹羽は楽しそうに、学生会室の横に付いている狭い部屋・・・電磁式のレンジなどが置いてある・・・ ところに向かっていった。
中嶋はひとつ、意味もなく息をつく。眼鏡のブリッジを押し上げて、これまた意味もなく、 学生会室内を見渡してみたりした。

数分後、丹羽は両手にカップを持って帰ってきて、さぁ休憩だ休憩だと騒いでいる。
「休む気満々」と言ったところか。
中嶋は、普段から毎日少しずつ仕事をこなしていけば、これほど溜まらなかっただろう、と皮肉のひとつも 言ってやりたかった。が、そんなもの、すでにこの会長は「慣れっこ」になってしまっていて、 効くはずもない。だから黙って、素直にカップを受け取った。

「・・・・?」
中嶋英明は眉間に皺を寄せた。カップの中身が”おかしい”と思ったのである。
中嶋は、コーヒーは完全ブラック派だ。ミルクも砂糖も入れない。そんなことは、長い付き合いの 丹羽は百も承知だろうに、このコーヒーが白いのである。
いや、それは白いコーヒーではなかった。
ミルク入りコーヒーではなく、ミルクそのものなのだ。

「丹羽、これは?」
隣の男に、毒を含めず聞いてみた。すると彼は自分のコーヒーを一口飲んでから、言う。
「ホットミルク。」
「誰がそんなもの、淹れてくれと頼んだ?」
今度は毒づいてそう尋ねてみた。だが、副会長のそんな表情くらいで、ひるむ”王様”ではない。
「お前、カルシウム足りなさそうだろ?だから。」

中嶋は黙ってしまった。もし自分が、他人から見てイライラしているように感じられたとしたら、 それは全て理由は、この会長にあるわけで。
俺にミルクを飲ませても、しょうがないだろうと内心ため息をつく。
だが、中嶋は何も言わなかった。手元にあるホットミルクを一気に飲み干してしまう。

ひとつだけ思うことがあって中嶋は、それを実行にうつしてみた。
「丹羽。」と軽く相手の名を呼ぶと、彼はこちらを向いた。
わざと唇の端から、白色の液体を少しこぼしてみる。
彼が、どんな反応をするかと思った。妙な想像をして顔を赤らめたりはしないかと期待したが、 やはりそこまで丹羽は考えなかった。

「何やってんだよヒデ、こぼしたりして。」
そして子供みたいに笑う。中嶋は手で口元を拭ってから、「高望みしすぎたか。」とつぶやいた。
「?」
丹羽は分からなかったらしい。フフンと中嶋は人の悪そうな笑みを浮かべて、
まず、目の前の男の顔を見た。
それから、壁に掛かっている時計の時刻を。
その後、この部屋の唯一の出入り口であるドアを眺めて、確か鍵はかけたなと思う。

「丹羽。」
もう一度、相手の名を呼んだ。
(大丈夫だ、俺の計算ではここでやっても、締め切りまでは何とか間に合う。)
そう思って、手を伸ばした。

END