言ってみたい



七条臣には、どうしても一度、言ってみたいと思っている台詞がある。
それは「郁ちゃん」・・・である。

「郁ちゃん」というのは、ご存知の通り、会計機構のトップ「西園寺郁」のことを、丹羽学生会長が 呼ぶときに使う言葉だ。
呼ぶ方も呼ばれる方もいい大人なのに、ちゃん付けなのである。
西園寺自身はその呼び方を気に入っていない。むしろとても嫌がっている。
そう呼ぶのが丹羽だからか、それとも「名前+ちゃん」という呼称自体が恥ずかしいからか。
おそらく両方だろうが、西園寺はその名前で呼ばれると、眉間に皺を寄せる。

しかしだ。

七条は、その名を呼んでみたいのである。「郁ちゃん」と。
呼んだ時に同じく嫌な顔をするか、それとも自分なら、驚くだけか。
それを確かめてもみたいし、何せ、単に呼んでみたいという欲もある。

今まで、ひとをちゃん付けしたことなど無かった。
それほど近しい存在の友人が、いなかったから。
誰でも、幼少の頃は特にそんな対象の相手がいそうなものだが、七条にはいなかったのである。
途中で、西園寺郁という存在にめぐり合うが、彼のことはずっと「郁」と呼んでいる。
アメリカ育ちの七条に、「カオル サイオンジ」だと自己紹介されて、「カオル」以外に呼び方を 考えろという方が、無理なことだ。

だから七条は、自分の中で「彼を友人ではなく、もっと違う存在」だと認識してしまった今、 今までとは違った呼び方にも、挑戦してみたいのである。
それで郁が、笑ってくれたりしたら。
それは、思わぬ幸運である。
怒らせてしまったら、素直に謝ろうと思うけど。


そんなことを考えていたら、珍しくタイプミスをしてしまったようだ。
打ち出されたものを見て、その間違いに気づき、西園寺は言った。

「何か、つまらないことを考えていたな?」

答えずにハハ、と七条は笑うが、それに対して西園寺は言った。
「ごまかしても無駄だ、顔を見ていたから分かる。何か企んでいただろう?」
ニヤ、と彼は笑って、隠さずに話せ、と続けた。
七条はにっこり笑ってから、あのですね、と言って、説明をする。

「郁のことをね、一度”郁ちゃん”って言ってみたいな、と思っていたんですよ。」

そうしたら、何だか特別なような気がするから。
それだけです、と彼は言って、最後にまた微笑む。
その言葉を聞いて西園寺は腕を組み、しばらくしてから、相手に耳打ちした。

「・・・・・・・あぁ、そうですね。」


”私のことを郁と呼ぶのは、臣、お前だけだろう?
それで、十分特別じゃないか。”



郁、僕はこれからも、貴方のことを郁と呼びます。
僕は、貴方の特別ですよね?


<了>