病み上がり

***

その人はとても優しいから、
だからたくさんの嘘をつく。

・・・

38度4分。

リッテルは手の中の体温計の表示を、もう一度見た。
38度4分。
見間違いではない。何度眺めても、数値に変わりは無い。
彼は珍しく、はぁとため息をついた。

クロード・リッテルは医師である。
正確には、彼の職業は憲兵なのだが、逮捕術も射撃も覚えていない
自分が役立てるとすれば、やはり医術に関してであると思っているので、
軍医としての勉強を欠かさない。
それと、もうひとつ彼が努力していることがあった。
体調管理である。

体調管理というものは、軍人にとって非常に重要なものであるが、
彼はそれに、とても気を配っていた。
医者の不養生という言葉で、笑われるのが嫌だということより、
己が休んで、隊長に負担がかかるのが、許せなかったのだ。
だからリッテルは毎朝体温を測ってから出仕していたし、
夕方に(余裕があれば)血圧等も調べていた。
それで、微熱があれば早めに薬を飲むなりの対策をとっていたのだが、
今回のこれは、不意打ちだった。
38度4分。
無いとはいえない。無論、熱のことだが。
昨日、人ごみの中に行く機会があったから、どこからか、貰ってきて
しまったのだろう。季節柄、風邪が流行っている。
彼が風邪をひいたのも、しょうがないことと言えた。

「・・・・。」
リッテルは考え込んで、思わず顔をしかめた。
彼が今悩んでいるのは、仕事を休むか/休まないか というより、
風邪を引いていることを、上司に言おうか/言うまいか だった。

元より、休んでシルバーに負担をかけるのが嫌で、体調管理に気を
配っていたのだ。
休みたくはないのである。
ただ、風邪というのは感染症だ。
うつしては困る。
ただ、風邪を引いていると告げたなら、あの人は優しいから、
「早く帰れ。仕事は私が出来るだけやっておくから。」
と言うに決まっている。それは本望ではない。
堂々巡りだ。

リッテルは思った。
今の時期、中身は大半が書類書きだが、仕事の量としては多い。
休んで、負担をかけたくはない。
仕事に入ってしまえば、黙々と用紙と戦っていれば良いのだから、
バレる可能性は低い。あまり咳は出ないし、声もかれていない。
問題は、熱だけだ。
幸い彼は医者だったから、解熱剤の類は持っている。
リッテルは自分で腕に注射をして、出勤することにした。

・・・

決められた出勤時間前なのに、シルバーは大体事務室で書類を読んでいる。
以前そのことをリッテルが本人に告げたら、「あぁ、それはすまなかったな。
お前たちは気にするな。私はやることが無いから、そうしているだけだ。」
と言っていた。それは多分、シルバーなりの冗談なのだろうけど。
おはようございますとリッテルは挨拶して、普段より1席、遠くの椅子に
腰掛けた。
事務室は会議室のようなものだから、椅子はたくさんある。
60脚はあるだろう。
しかしそれでも、誰がどこに座るかは暗黙の了解となっていたから、
普段より遠くに腰掛けた副官に、シルバーは疑問を持った。

「?リッテル、随分遠くに座ったな?」
「!?・・・・は、はい?そうでしょうか?!特に、意味はないのですが・・・。」

意味など無い、わけはない。彼は無意識のうちに、
「近づくと、うつるかも/バレるかも しれないので、出来るだけ離れよう」
という行動に出ていたのだ。
態度が分かりやすい副官の顔を少し眺めてから、シルバーはクククと意地悪く笑った。
そして立ち上がり、席はたくさんあるのに、わざわざリッテルの真横の椅子に
腰掛けた。
予想通り、リッテルは驚いていた。

「・・っ!?た、隊長!?」
「何故そうビクビクするんだリッテル?副官の隣に座っては、いかんのか?」

そしてまた、ニヤリと笑う。
見透かされている気がした。
リッテルは、自分の顔を鏡でまじまじと見つめる趣味など持っていないので、
朝の洗面のあと鏡を見ないのだが、
今の自分の顔は、熱のせいで赤いのかもしれない。
他人が見たら、すぐに風邪を引いていると、分かる顔なのかもしれない。
だから隊長は、気づいてしまったんだ。
分かっていて、私をからかっているんだ。
そう、リッテルは思った。だが口には出さなかった。
万が一外れていた時、墓穴を掘ってしまうことになるからだ。

シルバーは相変わらず意地悪い顔で、副官の青年の顔を眺めていたが、
額に手をあてて、熱をはかるといったことは、しなかった。
沈黙が、2人を包む。
ここに第三者がいれば「熱い視線を交し合っていた」という噂でも流れよう
ものなのだが、幸か不幸か誰もいない。
しばらくしてから、黒い髪の憲兵は言った。

「風邪を引いているんだろう、リッテル。隠さなくてもいい。」
「っ!いえ、あの・・・!」
「反論するつもりか。嘘をつく部下は嫌いだぞ、私は?」
クククとシルバーは笑う。リッテルは、黙ってしまった。
第3小隊の隊長は、急に優しげな微笑を見せてから、彼に告げる。

「無理をして、こじらせるとなお大変だろう?
欠務の届けは私が出しておくから、お前は帰って休むといい。
何、私は私で、自分でできるだけ、今日はやるさ。
自分ひとりで全部片付くなどと、驕(おご)ってはいないつもりだぞ?」

さぁ、とシルバーは相手をせかして、リッテルを事務室から追い出した。


彼がいなくなって、再び定位置の椅子に腰掛けたシルバー。
ホルスターの中の酒瓶を取り出して、一口含む。
「・・・・味が分からん。」
思わずそう、ひとりごちた。

己の額に手をあてて、シルバーは思う。
(・・・熱い。38度といったところか?)
昨日、人ごみの中に行ったせいか、風邪の菌を貰ってきてしまったらしい。
ただそれが、心配性の副官にバレなくて良かったなと、
この憲兵は思っていた。

<了>

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