「Dr.リッテルの優雅な休日」

第3小隊の副隊長であるリッテル少将は、朝9時からの勤務であれば、8時30分に出仕している。
8時20分でも、8時40分でも無い。8時30分、ぴったりだ。
彼が極度に時間に厳しい人間であるわけでは無く、これには少し事情があった。

憲兵には、いや、他の一般会社にも言えることなのかもしれないが・・・
地位階級の低い者が、高い者より、先に仕事場に来ている事を、美徳とする習慣がある。
リッテルはそれを、おかしな習慣だと、思った。
6時出の早番や、13時出勤の遅番があるのだから、9時出勤の「通常勤務」時に、 8時や7時に行くのは、はっきり言って、意味が無いと思えるのだ。
しかし、リッテルに馴染みの無かった、俗に言われる「体育会系」の考えを持っている者の中には、
「後輩が、先輩より早く来て、用意等をするのは当たり前」
という考えの者も、いる。
代表格が、リッテルも信頼している部下、エドワルド大佐だ。

自分も彼も、同じ「通常勤務」日には、エドワルドがリッテルを迎えるような形で、
つまり、エドワルドがかなり早い時間から出仕してきて、資料を並べたりしているのに、リッテルは気づいた。
その点に関してリッテルは、一度だけ彼に、注意をした。
注意といっても、温厚を絵に描いたような人物の、副隊長のことだ。
単に、
「エドワルド、君の気持ちは嬉しいのだが、そんなに早くに出仕してこなくても、良いのではないだろうか。
資料を揃えるのであれば、ほら、私も手伝うし・・・。」
と、言っただけである。

これに対しエドワルドは、「いえ!自分が好きで、この時間に来ているだけですので!」
という、まさに「体育会系」な答えを口にした。
彼エドワルドは「憲兵学校」出身だ。その名の通り、憲兵になる為の、学校である。
其処では、そういった精神論を学ぶのかもしれない。
リッテルは、そう思った。
しかしだ。
遅れるより良いとは言え、早く出仕しすぎるのも、「時間を守らない」ことの、うちに入る。
規律違反ということだ。
それは、いけないことでは無いだろうか?
正直なところ、リッテルの心の、根本にある考えは、
「時間を守って、精一杯の休息して欲しい」
であった。
リッテルは、今も昔も医者である。気の抜けない、死と隣り合わせの憲兵という職業である以上、 休む時には休む。先輩/上司より先に到着できるよう、睡眠時間を削って早くに出仕する。
そんな行動は、無駄だと思うのだ。

だがこの思想を、リッテルの上司である、隊長のシルバーに申し出るのを、彼はためらった。
何故なら、シルバー自身が、勤務指定時間よりも随分早く出仕している、憲兵だからだ。
理由なら、随分前に、聞いたことがある。

「自室に居ても、することが無いからだ。」
それならば詰所で、過去の事案でも読んでいた方が、有益だろう?
そう、シルバーは呟いていた。
隊長の場合、本当に、そうなのだと思う。当然だが、何せ隊のトップだ。
早く出仕してきた所で、誰かが褒めてくれるわけでも無い。
本当に、自室に居ても手持ち無沙汰だから、早めに詰所に来ているのだろう。

だが、リッテルは一大決心をして、隊長に、事のあらましを告げることにした。
部下が気遣って、出仕時間が、既定より段々早くなってきてしまっている。
それでは時間でシフト制を組んでいる意味も薄れるし、十分な、休息時間が取れない場合がある。
だから第3小隊の規律として、出仕は、指定時間の30分前、と決定づけるのはどうか、と。
エドワルドがそうしている、という、個人名は挙げなかった。
あくまで、そういった風習が流行りつつある、と言っただけだ。
仮に、この状態が続けば、おそらくウィルヘルムが、エドワルドよりも早く出仕したほうが良いのでは? 等と、考え出すかもしれない。
そうなってからでは、なおさら収拾が付かなくなる。
だからリッテルは、隊の規則として、30分前というガイドラインを、隊長に、定めてほしかったのだ。
目の前の、黒髪のこの人が、そのような行動をしていると、知っているにも関わらず。

シルバーは、椅子に座りながら、立った状態でそのように熱弁を振るう、彼の話を黙って聞いていた。
最初腕を組んでいたが、その腕も外して、じっと相手の顔を見て、聞いていた。
副隊長とは言えリッテルが、自分にそのような要望を申し出ることは、珍しい。
しかも彼の言う、その一種の「違反」を、私自身がやっているのを承知で、彼は言っているのだ。
よほど、勇気の要ることであったろう。勿論、今までもリッテルの事を、軟弱者だと思ったことなど、無かったが。

シルバーは、フフといつものように笑ってから、立ち上がって、リッテルに向かって言った。
「お前の言いたいことは分かった。策は打つ。
残念ながら、軍務既定といったきっちりしたものではないが、数日すれば、お前の悩みの種は無くなるはずだ。
任せておけ。」
自信満々な隊長の表情と言葉に、リッテルは救われた気がした。



数日すると、シルバーが言った通り、既定時間のほぼ30分前に、人が集まるようになった。
特に、大きな力は働いていない。シルバーが1人の人物に直接話をしにいってから、1枚の紙を貼っただけだ。
リッテルの案に、具体的な個人名は出ていなかったものの、リッテルより早く出仕して、彼を困らせた張本人が、 エドワルドであろうという事の、察しはついていた。
だからシルバーは、エドワルドに直接話しをしにいった。

「エドワルド。」

大佐である彼は、シルバーが不在の場合には、隊長の代わりを務める場合がある。
彼の仕事は、端から見るより多くあって、敬愛するシルバー隊長と話せる機会も、実は、多く無い。
だから彼は、急に声をかけられて、嬉しくて飛び上がってしまった。
椅子に腰掛けていたが、びっくりした反動で、数センチ浮いた。文字通り飛び上がったということだ。

「何でしょうか、隊長!?」
犬が飼い主に駆け寄るように、椅子から離れてダッシュして、小柄な大佐はシルバーのもとにやってきた。
シルバーは、彼の位置を確認してから、その場で聞こえる声量で話しても良いのに、あえて声のボリュームを抑える ことにした。代わりに、顔を近づけて相手との距離を近くする。
ここだけの話、内緒話をするかのような態度だ。
そのような内容の話では無いのだが、あえてそういった行動に出た。
そうすると、何か深い話をしてもらえるのだな、と相手を安心(もしくは油断)させることが出来るのだと、シルバーは 知っていたからだ。実はこれも昔、大将に習ったのだが、そのエピソードは勿論、話さないでおいた。
小声でシルバーは、エドワルドに向かって、言う。

「私はまわりくどい事が嫌いなので単刀直入に聞くが、エドワルド。
お前は、9時出勤の通常勤務の時に7時に出仕したり、13時の遅出の時に、昼前に詰所に来たりしているだろう?
私も時間を守っているわけでは無いから、言うのは、はばかられるのだな・・・。
お前の真面目さに、逆に、心を痛めている人間が、いる。
それが誰かは、言わなくても、お前なら分かるだろう?
そこでだ。隊全体で、「出勤は、指定時間の30分前を目安に!」という、スローガンをかかげようかと思っている。
もう少しすると、労働なんとか局の人間が来て、やれ休みは取っているかだの、給料は適切かだの、調べにくる時期だ。
そこに、先手を打っておこうという訳だ。
スローガンと言っても、大したことはしない。宣言を紙に書いて貼っておくだけで、十分だ。
それで、あちらの役人は、隊独自での行動がある事くらいは、認めてくれるだろう。
こういうことは、第一印象が重要だ、余計な手間はかけたくないしな。」

そしてシルバーは1枚の紙を出す。先ほど言ったような事柄が、すでに書いてある。
それ以外に、「資源を大切に使おう」等、関係ないことまで記してあったが。
隊長は、エドワルドにその用紙を渡し、
「エドワルド。すまないが、玄関ホール東側の、コルクボードに貼っておいてくれないか。
第3小隊所属であれば、其処は必ず通るはずだからな。」
と言った。受け取ったほうは、はいっ!っと大きく返事をして、すぐさま部屋を出て行った。
シルバーは別に、掲示は今すぐで無くても良かったのが、出ていくエドワルドの足取りが楽しそうだったので、 引き止めずに、自らもその部屋を、静かに去った。



そんな事があって、リッテルはまるで測ったように、ぴったり30分前に出仕してきている。
その日も8時30分に、いつものように玄関ホールをくぐった。
真っ先に第3小隊の詰所に向かったが、その扉を開けると、中に居たシルバーに言われた言葉に、驚いた。

「あぁリッテル、おはよう。
急な頼みで悪いのだが、お前は今日からまる1日、休んでくれないだろうか?」

はい?とリッテルは、語尾をあげた、おかしな返事をしてしまった。
憲兵という仕事上、先に決めたシフトが変わって、急に休みになったり、急に出勤になったりすることは、ある。
だが、今のシルバーの言葉に、何か違和感があったのだ。
出勤日の朝、「来てくれたところをすまないが、今日はお前を、休みにシフトを変えても、大丈夫だろうか?」と言われた事なら、 何度かある。
今まで使われた言葉とは、確かに違う。感じた違和感は何だ。
そうリッテルが考えている数秒の間に、シルバーは答えに繋がるような説明を付け加えた。

「休みと言っても、残念ながら、レポート付きでな。
休んだ気にはなれないと思うのだが、あちらが付けてきた条件としては、お前に頼むしかないのだ。
すまないが、引き受けてくれ。」
あちら、という存在も気になったので、リッテルは椅子に腰掛けて、シルバーの話を詳しく聞いた。

労働なんとか局の役人が、我々憲兵隊に、調査に来たらしい。
これは、前から知らされていた事だったので、別に驚きはしなかった。
休暇は、正当に与えられていますか。不当な残業を、しいられてはいませんか。
パワーハラスメントを、受けていませんか。
そんな事を聞きに来る、団体である。彼らには彼らなりのポリシーが有るのであろうが、忙しいこちらとしては、 正直なところ、構っている時間が惜しい。
しかし憲兵も公僕であり、同じ役人をむげに扱う訳にはいかない。
「あちら」が納得するだけ、調べるなり質問するなりして、早めにお帰りいただくだけだ。
そして、その機関が重要視している内容として、
「憲兵は非番日に、本当の意味での休日を、過ごせているだろうか?」
という点がある。
非番/休みだと言いつつ、多忙だからと他の者が呼び出したり、勤務しているのに帳簿上だけ休みにしていたりという、 不正がないか、と疑っているわけだ。
そこで彼らは、各隊に1名ずつ、近日の休日の過ごし方を、公開してもらう事にした。
当日は行動をメモして、のちにレポートとして提出する形で。
第1小隊は「尉官のうち、1名」、第2小隊は「佐官のうち、1名」、
そして第3小隊に課せられた使命は、驚くべき事に、「将官のうち、1名」である。

普通、どの隊にも、准将以上の「将官」は、1、2名しかいない。
多くて、第9小隊の3人だ。
尉官や佐官なら、選択肢は30択以上あるが、「将官」に限れば、二択だ。
ひどく狭い選択肢である。
そしてそれは勿論、対象は「シルバー」か「リッテル」のどちらかになるわけだが、

「1日中”酒”と書いてあっても、あちらも納得しないだろう?」
と、シルバーは呟いた。
レポートを書きたくないから言っているのではなく、冗談抜きで、本当に、1日中酒を飲んで、過ごしている事があるらしい。 怖ろしいことだが、事実なので、第3小隊の建前としても、自分がやる方が合っているだろうな、と、リッテルは思った。

隊長は、副官に電話を渡す。ごく普通の携帯式電話だ。
憲兵内ではほとんど、肩につけている無線機で連絡を取り合っていたが、それを「休みの日は不要だから、一度返せ」と シルバーは言い、リッテルの無線機を、彼から預かった。
「緊急を要する場合は、電話機を鳴らす。鳴らすことは無いと思うが、念の為だ。」

ちなみにその電話は、現在位置を知らせる機能を、意図的に、オフにしてある。
だからお前が、どんな場所で何をしようが、全く気にしなくていいぞ。
しかし、行ってない場所に行ったと嘘の記述を書くより、行った場所を素直に書いた方が、レポートとしては、 早く仕上がるな、当然だが。
それに今更だが、私はお前が、公序良俗に反する場所に行くとは、最初から思っていない。
出来れば、思い切り優雅で気品のある、穏やかで充実した1日を、過ごしてくれ。
無理ばかり言ったが、どうか頼む。

そうやって黒髪の憲兵隊長は長々と話し、最後には頭を軽くさげた。
そこまで言われると、リッテルもやらざるをえない。謹んでお受けいたします、と承知すると、

「ありがとうリッテル。では早速だが、報告のスタート時間が、9時からなのだ。
急がせてすまないが、持っているなら私服に着替えて、9時までに、この建物から出てくれないか。」
と、シルバーは言った。本当に急である。リッテルは自分の腕時計を見た。
話を聞いていたので、もう20分経過している。残り10分だ。
リッテルは、自分のロッカーに私服を一応準備していたので、それに急いで着替えて、若干バタバタしつつも、 ほぼ9時ジャストに、30分前入ってきた、玄関ホールを出た。


(行動をメモしてレポートを出すのは良いけれど、
”思い切り優雅で気品のある、穏やかで充実した”というのは、ハードルが高いなぁ・・・)
それを全部カバーすることは出来なくとも、とにかく、休日っぽい休日にすれば良いのだよな、とリッテルは 思い、まずは近くの、小さな商店が並ぶ街まで、徒歩で向かった。
勿論、あとでまとめる為に、手帳に徒歩何分などと、細かく記載しながら。

街に到着すると、まずは目に付いた小さな本屋に入った。医術書等の専門書は置いていない、本当に小さな個人の店。
そこでリッテルは、クラシック音楽に関した雑誌を1冊を買った。其れくらいしか、彼の興味をそそるものが、無かったのだ。
案外すぐにそこから出てしまったので、次に近くにあった、カフェに入った。
カフェというもの自体あまり利用しないが、ルールくらいは分かっている。
自分好みのコーヒーを注文して、出来上がるまでの時間、オープンテラスの椅子に腰掛けて、先ほど買った雑誌を、少し読んだ。
案外早く飲み物が到着したので、雑誌を、ほとんど読むことができなかった。リッテルは其れをしまい、温かいコーヒーで、「カフェ」という気分を楽しんだ。

思ったより、時間が過ぎない。さっきから時計ばかり見ている。まだ10時半だ。
リッテルは、やはり先ほどの本屋で「医学書」が無かった事が、残念に感じたという事を思い出し、街の奥にある、図書館まで足を伸ばした。
真っ先に、医学書の有る階に向かったのだが、医学関係の本を読んでいると、
「それは仕事の一種ではないのか?休んでいるのに入らないのではないか?」
というクレームが、出る可能性がある。そう、考えを改めてリッテルは、歴史書の置いてある階に、移動した。

前から、気になっていた事がある。
何故この国に、警察・憲兵・軍人の、3種類の公僕が存在するのか、だ。
この3種類の職業が「全く違う」ならまだしも、特に、警察と憲兵の行っている事は、似通っている。
それに軍人は、本来なら敵国や、テロリスト等と戦うためにあると言われているが、ここ数十年、軍人が活躍するような、「戦い」というものは、起こっていない。
だからといって、「平和」なのかといえば、そうではない。
自分達の管轄のテルミネだけ見ても、爆破テロ組織は存在するし、圧倒的に貧しいスラム街もある。
3つあることの意味。分かれた意味。または、そもそも意味などなく、全てが同じになれば、より良い国になるのか?
そういった疑問が、リッテルの頭の中には、常にあった。
だから知りたかった。憲兵隊の歴史が。
憲兵学校では習うのかもしれないが、リッテルは軍医学校を出ているので、全くと言っていいほど、知識が無かった。
1冊の本では、筆者の考えが偏っているかもしれないからと、軍部の歴史に関する本を、流し読みではあるが、10冊近く読んだ。
それでも、明確な答えは、出なかった。
出なかったからこそ、以前隊長に聞いた言葉を、思い出す。
「憲兵は、警察より身近で、軍人より尊い職業だ」

私も当分そう思うことにしよう、と、リッテルは心に決めた。
誰かを倒し、その代償に傷ついた人を治療する、それが軍医の役割だと、世間では思われている。
それは、間違いではないと、彼は思う。
ただ、軍医から憲兵に、引き抜かれた形で異動したリッテルにとって、大きく違うと思うのは、
憲兵が傷ついている時、それは誰かを助ける為に、負った傷だ。
それを治す。その仕事に、リッテルは今、誇りを持っている。

本に夢中になっていたせいか、もう12時を過ぎていた。
リッテル自身は食に関して興味が薄いのだが、せっかくの休日のランチが、サンドイッチ1つという報告も、 面白くないだろうと、彼は考える。そして、”思い出した”。
幼い頃、家族で行った、家庭料理を出すレストランまで、タクシーを使って向かった。

店は、彼の記憶の雰囲気そのままで、残っていた。リッテルは、その日のおすすめなるパスタを注文した。
店の主人や働いている婦人が、ほとんど話しかけてこないことに、リッテルは、ほっとした。
職業等を聞かれようものなら、面倒くさくてしょうがないからだ。
職業に誇りを持っているのと、話しやすいかどうかは、別である。
リッテルは特に社交性が低い人物では無かったが、おしゃべりが上手なたちでも無い。
だから、静かなまま調理が進み、注文したものが目の前に来た時は、嬉しかった。
リッテルは、感情まで、きちんとメモしておいた。

食事を済ませ、店を出た。憲兵隊詰所から離れてはいるが、ここもテルミネ地区だ。
どちらかというと、今いる場所は繁華街であり、高級住宅地である。
少し行けば、実家があるな、とは思いついた。しかし、特に用はない。
いや、長男たるもの、何かにつけ用件を作って実家に寄るべきなのだとは思うが、難しい、と青年は思う。
そこで、己に課せられた、シルバーの言っていた、高いハードルのことを、今一度思い出す。

”思い切り優雅で気品のある、穏やかで充実した”

何故だか知らないが、色とりどりの華と、菓子が思い浮かんだ。
安直かな、とは思いつつも彼は、花屋で花束を、ケーキ屋で菓子の詰め合わせを購入し、 両方とも、実家に配送を依頼した。歩いていける距離に在るのに。
持参するのは、さすがに気恥ずかしいからだ。
「カードはお付けしますか?」
と、両方の店で尋ねられたので、リッテルは少し考えてから、
「”お元気でお過ごし下さい”と、お願いします。」
と、頼んだ。随分他人行儀な言い方だが、「元気でな!」というほど、フランクな間柄でもないから、気にしないことにする。
両親ともに医者で、忙しいはずだ。特に、メッセージカードの言葉を、深く読むようなことはしないだろう。
花と菓子が突然届けられたこと自体に、驚くことはあっても。


これだけの事をしたが、まだ2時半だ。
何をしよう、とリッテルは、正直悩んだ。うろうろ歩いているうちに、見慣れない場所にたどり着いた。
射撃場だった。
機械仕掛けで動く的に向けて撃つ、いわゆる、ストレス解消の為の娯楽としての、射撃をする場所である。
憲兵隊施設には勿論、射撃訓練場が有るから、其れは、何度も見た事があった。
代わりに、こういった娯楽としての射撃場を、見た事が無かった。
ぼんやり眺めていると、店員らしき男が近づいてきて、彼リッテルに、こう話しかける。

「にいさん、ばーんと撃ってみると、ストレス解消になりますぜ?やってみませんか?」

<背は高いが、体格が良い訳では無い。悪い言い方をすれば、ひょろひょろした印象の、青年だ。
多分、仕事は頭を使う事務系で、趣味は・・・読書とか音楽鑑賞とか、おとなしめなもの。
着ている服から察するに、貧乏では無い。いや、裕福な方だと言えるか?
射撃などしたことは無いだろうが、こういった人間の方が、声をかければ乗ってくるもんだ。>

そう、射撃場の店員は考えた。店員の考えは、大体が正解だ。
リッテルの趣味はレコード集め、つまり、音楽鑑賞である。
憲兵隊に所属しているとは言え、主にやっているのは、事務的処理だ。
唯ひとつ違うとすれば、リッテルは射撃を、憲兵隊の訓練場で、何度も経験している。

おそらく、射撃なんかしたことない男だと思われただろうなぁ、と自分で気づきつつも、 リッテルは店員の男に、「やってみたいです、お幾らですか?」と、尋ねた。
射撃訓練すら、重い気持ちで受けていたのに、何故、休日の”大切な時間”に、お金を払ってまで「娯楽」の射撃を、試してみたいと思ったのか。
自分で決めたことなのに、リッテルにはその理由が、理解できなかった。
だが、好きな事をして良いのが休日なのだから、分からないまま、彼は昼から夕方にかけての時間を、射撃に費やす。

基本料金に、別途、弾代が使っただけかかるシステムだそうだ。
特に高い料金では無いので、リッテルは十分銃弾を買い、かなりの時間を、そこで過ごした。
訓練場で使っているものと違うからか、娯楽として作られているためか、命中率は高い。
それを横で、ずっと褒めている店員の男を、大変だなぁとリッテルは、内心思った。

思ったより射撃に熱中してしまったようで、気づいたら、日が暮れ始めていた。
簡単な挨拶と、良くしてくれた彼にチップを少し渡してから、リッテルは再度、タクシーで詰所近くの街まで戻る。
繁華街で夕食を摂るという選択肢は当然あったが、あんな街で1人でディナーというのも、逆に恥ずかしい。
デートコースとして店に予約をしておいたのに、彼女に逃げられた男のようだ。
無論、これは一般論としての例えで、リッテルにそうした経験があるわけでは無い。


車を降りて、食事をどうするか、考えた。
リッテルは階級が少将なので、やろうと思えば大きな屋敷に住むことも出来るのだが、 慣れもあって、若い頃から住んでいる独身寮に、いまだ住んでいる。
詰所に近くて、交通の便が良い。
それに、リッテルのような、料理の苦手な独身男性の為にあるのか、 安価でバランスの取れた惣菜を売っている店が、寮に並立するように立っている。
年中無休で夜中や早朝も営業している、大変ありがたい店だ。

だからリッテルは、自宅に居る時は大抵、その店で食料を調達している。
今晩もやはり、そこで軽い惣菜とパンを買った。
そして自宅で、静かにそれを食べた。
静か、というのは食事風景のことで、実際はリッテルの好きな、クラシック音楽が、部屋中にかかっている。
好きな音楽を聴きながら、食事をすることが出来るという事が、彼にとって「贅沢」だと思っている。
何故なら、緊急時には、そんな余裕は生まれないのだから。
リッテルは、アルコールを全く飲まない。だから、ワインが何年モノだと言ううんちくより、趣味の音楽鑑賞から生まれる、精神論のような贅沢さを良しとするのだ。


食事を終え、流していた音楽・・・レコードを入れ替えて、新しい曲を又かけた。そしてリッテルは、紅茶を淹れた。
茶葉も持ってはいるが、パック状の手軽なものを使った。自分1人で飲むにはそれで十分だ。
清らかな音楽が流れる中、リッテルは目を閉じた。今日の出来事・・・主に射撃の事と、昔、シルバーが彼に懇願してきたことを、思い出した。

”リッテル。逮捕術も護身術も今更覚えなくて、良い。ただ、できれば射撃だけは覚えてくれ。”

そう言って、射撃練習場に自分を連れてきたシルバー。それまで、軍医だった彼リッテルは、勿論銃を扱った事が、ほとんど無かった。
正確に言えば、幼年学校の高学年の、授業の科目に存在するので、その時以来だった。つまり、10年以上触っていない事になる。しかもリッテルは、その射撃の成績が良く無かったので、当然苦手意識があった。

大人しく着いてきてくれたが、自分が何故、彼に射撃をさせようとしているか。
彼リッテル自身が理解していないと気づき、シルバーは、明確な説明をすることにした。
言葉での説明の前に、シルバーは射撃場の銃を手に持ち、構えた。
そして、はるか向こうにある、人型の的の、頭、胴、地面ギリギリの下部、の3箇所に命中させた。3発で。

シルバーは銃を置いて、リッテルの方を向いて、低い声で言った。
「リッテル、頭と胸と足、そのうちどれかを銃で撃ち抜かなくてはならないとした時、お前は、どこを狙う?」
リッテルは、その質問に、率直に答えた。
「私の腕では、そのどの部分にも、命中させることはできないと思うのですが・・・。」
彼が申し訳なさそうに声をあげたので、シルバーは聞き方を変えた。
「すまない、聞き方が悪かった。
人間の頭と胸と足、銃弾が当たった場合、一番致命傷となりにくい部分は、どこだろうか。」

医学を学んだものでなくとも、誰でも分かりそうな問題だが、リッテル自身に答えてもらうことに、意義がある。だから、シルバーは聞いた。
「・・・足、でしょうね。」
足と言っても、腿か脛によって処置は違うが・・・と彼は、関係のない事を考えた。それから、自分の上司に向かって、尋ねた。
「何故そのような事を、私にお聞きになるのですか?」

すると黒髪の憲兵はフフと優しく笑って、言うのだ。
「我々の役割は、相手を倒す、殺すことが目的ではない。
相手が犯罪者であるならば、”捕まえる”ことが、最重要項目だ。
足を撃てば、逃走速度も遅くなる。勿論相手の覇気も弱まるし、逃げ隠れた場所を探す、手がかりになる事もある。
それに・・・ここが重要だ。足の場合、相手が命を落とす可能性が、低い。
リッテル、憲兵は強力な武器を持っているが、それは相手を死なせる為のものでは無い。
それを、理解してほしかった。
当然、足を狙うには、胴に命中させる以上に、技術が必要だ。

射撃というのは、練習した分だけ成果が出ると、私は以前、教わった。
だから今も、訓練を続けている。確かに努力が結果に出ると、自分でも感じる。
・・・リッテル。逮捕術も護身術も今更覚えなくて、良い。ただ、できれば射撃だけは覚えてくれ。」

悲しい思いをする人間を、増やさないために。
そう、最後にシルバーは呟いたのだった。

リッテルは目を開けた。すっかり紅茶が出すぎてしまって、濃い色になっている。
射撃だけは覚えてくれと言われたものの、結局自分は、隊長のようにまめに、訓練場に行ってはいない。
深層心理では、それはいけないことだと。いつか解決しなければならないことだと、思っていたのだろう。
だから街中で偶然見かけた射撃の遊戯に、時間を費やすようなことを、したのだ。
罪ほろぼしにも、ならないのに。
リッテルは目の前の、出すぎて渋くなったであろう、紅茶をひとくち飲んだ。
予想通りの、味がした。
己の今の感情を表しているようで、ぴったりではないかと、青年は思った。



翌朝。いつもより30分だけ早起きしてリッテルは、昨日の行動をレポートとして、まとめた。
彼の特技として、早くペンを動かしても字が乱れないという点がある。
だから30分程度で、書類が書き終わるのだ。
昨日買った、惣菜とパンをまた食べて、彼は家を出た。

予定通り、8時30分に憲兵隊詰所の玄関ホールをくぐり、上司がいるであろう部屋に向かった。
黒髪の隊長は、いつもの場所に腰掛けていて、入ってきた副官に微笑んで挨拶をする。
「おはようリッテル、そしてご苦労だった。」
脇には、エドワルド大佐も居た。
リッテルは早速、まとめた書類をカバンから出したが、それが隊長に渡る前に、
「隊長、自分が先に見てもいいですか!?」
と言いながら、エドワルドがレポートを、取ってしまった。
リッテルは、少し目を丸くした。妙な事に興味があるのだな、と思っただけで、怒りの感情を覚えたわけではない。
おそらく自分が到着する前に、隊長から事情を聞いていて、
「自分も、副隊長の書かれたレポートを拝読しても、いいでしょうか!?」
と、許可を得ていたに違いない。リッテルはそう考えた。
そうでなければ、上司に提出すべき書類が渡るのを、部下の彼が、妨害することになってしまう。
そんな事が分からないほど、彼は愚かではない。

速読術でも見につけているかのような速さで、エドワルドは手元の書類を読んだ。
そして小声で、横のリッテルに向かって、呟いた。
「随分、盛りだくさんですね。これはその・・・多少、アレ」
アレというのが、「脚色したか」という言葉を濁したものだと、リッテルは理解できたので、軽く首を振ってから、部下に向かって答える。
「いや、全て事実だ。そのように行動してきた。
私自身も、かなり”頑張って”しまったと思うよ。」

リッテルは、知らぬうちに笑っていた。読むのに満足したエドワルドから書類を戻してもらい、歩いて近づいて、上司のシルバーに、レポートを提出した。
シルバーも回ってきた書類に目を通してから、顔をあげ、薄茶色の髪の長身の青年に向かって、呟く。

「充実した1日だったようで、何よりだ。
夕方の、射撃場、というのだけが、意外だったな。」

それは、エドワルドも口には出さなかったものの、同意見だったようで、大きく頷いている。
射撃場、という言葉が出たのを好機と見てリッテルは、尊敬する黒髪の憲兵に向かって、願い出た。
「隊長。以前のようにまた、射撃の練習に、付き合っていただけませんか。
勿論、時間が空いた時で結構ですから。」
微笑んで、お願いします、と彼は続けて言った。


昔聞いた言葉の、本当の意味を理解した。
「悲しい思いをする人間を、増やさないために。」
被害者の事だと思っていた、それと、死傷する危険性のある、自分達、憲兵の事だと。
隊長は、加害者の事まで考えている。
だから殺すな、射撃の腕を磨けと言ったのだ。

己がこれから練習したところで、どれだけの腕前になれるか、分からない。
だが、やらなくてはならないのだ。
いつか、敬愛する上司や大切な仲間を守る為に、撃たねばならぬ時が来るかもしれない。
その時、後悔しない為に。

苦い紅茶を飲みほした時に、そう心に刻んだ。

<了>

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