Thanks Mother's Day

”やはりこの日には、日頃の感謝の意を込めて、花を贈ろう”

***

「男は皆、エディプス・コンプレックスのかたまり。」
そう、シルバーが今目にしている本には、記されている。
それは心理学の本なのだが、シルバーはひとつ息をついてから、自分の部下たちに、尋ねてみた。

「・・・だそうなのだが、これは正しいと思うか?」

そこに居た4人の青年たちは、各自、困ったような笑みを浮かべたり、
眉をひそめたり、反応はいろいろだった。
シルバーは、手元の本に視線を戻す。

若くして命を落とす戦士たちは、瀕死の重傷を負った時、
無意識のうちに唱えているのだ、母の名を。


シルバーは、それはエディプスコンプレックスとは直接関係ないのでは
ないかと思いつつも、書かれた内容に、納得する。
母とはある意味、人間の故郷である。
帰りたくなるのだ、その元に。
己のように、肉親の存在が分からない者であっても。

「母、か。」

そうつぶやいてシルバーは本を伏せ、席を離れた。
明日は、世間で母の日と呼ばれる記念日だった。町中に、紅い花が舞っていた。

***

不思議なことを尋ねられたな、とリッテルは思った。
隊長が先ほどから、心理学の書物を読んでいたことは知っている。
男は皆エディプスコンプレックスのかたまりかと問われて、はいそうです、と、
男の品格を下げるわけには、いかなかったので。
はは、とリッテルは、苦笑いを浮かべて質問を流すしか無かった。

彼自身は、母親にべったりとくっついている気は、無い。
10歳から学校の寮に生活し、両親とは離れて暮らしている。
軍人となってからも、寮生活だ。
たまに実家に帰ればいいのだろうとは思うが、多忙を理由に、どうも実践
できていない。
リッテルには弟がいたが、その弟は、リッテルが25歳の時に亡くなって
いるので、なおさら家に帰りづらくなっている。
本当は、その弟の分まで、己が実家を顧みるべきなのだとは思うが。

世は母の日だ。自分の部下たち3人は、3人とも、
もう花屋に、花束を実家まで届けさせる手はずは、済んだという。
さすがにこの歳になると、自分が花束を抱えて実家を訪れるという行動が、
恥ずかしいらしいので。
妻帯者のウィルヘルムは、まだ彼ら夫婦に子はいなかったが、細君の分まで
日頃の感謝の意を込めて、花を用意したそうだ。
そういうマメなところが、彼がもてる理由なのだろうな、と、色恋ごとにうとい
リッテルですら、思った。

リッテルは、シルバーが読んでいた本を拾い上げる。
その本の中のある一節に、リッテルは少し思い悩まされた。

男性読者に問うが、もし戦争で、瀕死の重傷を負ったとしたら、
母以外の人間の名前を、貴方は呼べるだろうか?


医者である自分は、もしそのような事態が発生したとすれば、
一人でも多くの患者を救うことが使命だろうと思うが、
もし、自分が倒れたら。
手の施しようがないほど傷を受けて、あと数分で、息絶えてしまう状況に陥ったら。
自分は、誰の名を呼ぶだろう?

おそらく、母ではあるまい。父でもないだろう。
やっと同じ場所に行けると、先に逝った弟のことを思い出すだろうか。
いや、違う。
自分が呼ぶのは、おそらく・・・。

考えて、少し首を振ってからリッテルは、本を閉じた。
それから彼は、この本は、既婚者のことを考えてない問題作だな、と考えた。
ウィルヘルムがもしそんな状況に陥れば、間違いなく細君の名前を呼ぶのだろうし、
子がいる「父」なら、最後の言葉は子の名前かもしれないからだ。
つまらない本に惑わされるのは、止めることにした。
最後に、ふいに頭をよぎった思考を、固めてはいけないと考えたから。

”おそらく私は、隊長の名を呼ぶのだろう。”

***

母の日は、休日である。
母の日だから休みなのではなく、一般的に休みの日曜日に、母の日という
記念日をあてているだけだったが。
そして暦に休みが左右されない憲兵は、母の日に出勤しているものも多かった。
だがリッテルは、自分たちの第三小隊のシフト表を見て、驚くのだ。
気になった彼は、隊長に尋ねてみた。

「あぁ、それか?
今の時期は気候が良いから、治安も良くて大した事件は起きないしな。
だから、最低限の人数だけかり出して、あとは休みにした。
・・・休みにした理由?
それは、今日が母の日だからに決まっているだろう?
普段、母親に孝行が出来ない者達も、今日くらいは実家に帰って、
母親の労をねぎらうといい、と思ってな。
リッテル、お前も休みにしてある。だからもう、今日は帰っていいぞ。」

シルバーの副官である彼は、シルバーと同じ日に出勤し、休んでいることが多い。
だからシルバーだけ勤務扱いなのは気がひけたのだが、リッテルは、
相手の言わんとしていることが分かった。
自分のような、実家に帰らない男に、その言葉は向けられているのだから。
己は花屋で花を買って、久しく帰っていない実家に顔を出すべきなのかもしれない。
少なくとも、隊長はそれを望んでいる。
だが・・・・。

「どうした?」

うつむき加減で黙っているリッテルに向かって、シルバーはそう声をかけた。
軍医の彼は、思っていたのだ。
それで、隊長の心は、満たされるのかと。
声に出して尋ねれば、おそらく肯定の意の言葉が返ってくるだろうとは思う。
お前たちが笑顔であれば、私は至極幸せだよ、と、シルバーは言うだろう。
それは分かる。長い間そばに居て、それは理解できた。
だがそこに、口に出されない悲しみがあるのではないかと、リッテルは心配になるのだ。
我々が感謝すべき人間が、長く会っていない母よりも、より近くに、
目の前にいるのに。

「・・・そう、ですね。失礼して、帰ります。」

ぽつりぽつりとリッテルが告げた言葉は、黒髪の憲兵を満足させるに至っただろう。
部屋を出てからリッテルは、壁に寄りかかって、額に手を当てた。
記念日にしか、家族を思い出さないというのも、おかしなことだけれど。
それはとても贅沢な話だ。
孝行したい時、帰ればそこに対象はいるのだから。

肉親の存在を知らぬ隊長は、我々を見て、どう感じるのだろうか?
おそらく一番親しかった人物も、もうこの世にはいない。
せめてお前が居てくれたらな・・・とリッテルは、亡き弟の名をひとつ呼んだ。

***

リッテルはこの日、多くの男性がやっているように、花屋に寄って花束を
買ってから、総合病院である実家に久しぶりに帰った。
両親は、2人とも驚いていた。そして同時に息子の来訪を喜びもした。
抜け出してきているんだ、勤務に戻らなければと嘘をついて、リッテルは 早々に実家を後にする。
リッテルの実家は、第三小隊の管轄地から遠いのだ。
彼が詰所に戻ってくると、すでに夜中だった。

彼の上司の憲兵は、一日の疲れが出ているのか、椅子に座ったまま居眠りを
していた。
確かに、夜中から始まって夜中に終わるシフトに隊長はついていたから、
この時間、疲労が来るのはしょうがないことだ。
シルバーがすやすやと眠っているのなら、リッテルは相手に毛布でも掛けて、
そのまま眠らせておくつもりだったのだが、違ったので、相手を起こそうとする。
シルバーは、うなされていたので。

この人がうなされているのを見るのは、初めてではない、とリッテルは思う。
過去も何回か目撃している。夢見が悪いのは単に体質なのか、それとも他に原因が あるのか。
リッテルは、詳しく相談されたことはなかったので、分からなかったが。
ともかく、相手がうなされている時には起こした方が良いとリッテルは
思っていたから、シルバーの肩に手を伸ばす。

「・・・・リッテ、ル・・・!」

呼ばれたので、軍医の彼ははいと返事をした。
しかし、その後の言葉がない。
しばらく待ってから、リッテルは相手がまだ起きていないのだということに
気がついた。
肩を揺さぶって、リッテルは上官を起こした。
彼と目があって、開口一番、シルバーは言う。

「・・・はっ・・・・!あ、あぁ、すまない。眠っていたか。
起こしてくれて助かった、ありがとう。」

いえ、と副官の青年は短く答えた。ちらと時計を眺めて、彼は言う。
「隊長、もう交代の時間です。私がここにおりますから、
隊長はもう、ご自分の部屋でお休みください。」
そう言って、にこやかに相手を送り出し、リッテルは先ほどまでシルバーが
座っていた椅子に腰掛けた。

あの人は。
母の日に孝行をしろと部下に告げて、自分だけ勤務に出ていたあの人は。
どんな夢を見ていたのだろう、うなされながら眠って、

「私」の名を、呼んだ。

親友だった弟とは、ファーストネームで呼び合っていたそうだから、
その名が示すのは、「私」の他にない。

とても嬉しい、とリッテルは思った。
目を閉じて、華やかに飾られていた今日の町並みを思い出して、リッテルは
考えるのだ。


今度から母の日には、日頃の感謝の意を込めて、あの人に花を贈ろう。
血縁関係など関係ないのだ、ようは「思いが込められているか」
美しく咲くが、数日でその命を散らす花は、
尊き命を守るために戦う、我ら憲兵の「厄」を、逆に取ってくれるだろう。
抱えきれないほどの花を、あの人に贈ろう。
貴方にとって郷(さと)と思えるような存在になれるのなら、これ以上の幸福は、
私には無いから。

Thanks Mother's Day END

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