『あなたは今,束の間の奇跡の中にいるのです』
そう言われた.奇跡,だと.

この丘にも春が訪れている.あれほど冷たかったこの草も, いまは柔らかな陽光をいっぱいに浴びて僕を優しく抱きしめてくれる. あんなに彼女が待っていた春は,いまこんなにもここにあるのに.

奇跡であるはずがない.こんなに苦しいのに.こんなに悲しいのに.こんな痛みは,奇跡であるはずがない.

こんな痛みを,彼女もこの丘で抱いていたのだろうか. たった一人,遠い街の景色を見つめながら. ずっと来ない,ただ一人の人間を待ちながら. 静かに,焦がれる想いだけを傍に置いて.

澄み渡る空にそっと手を伸ばすと,春の風に揺られて静かに鈴が鳴った. 鈴に映るかすかな夕日は,彼女の笑顔の余光のような気がした.

笑顔は,素敵だった. 些細な諍いも,他愛のない悪戯も,とりとめのないお喋りも.何もかもが素敵だった. もうきっと,奇跡は終っていたのだ.僕たちが出会えたあの瞬間に. 彼女と過ごした時間は,ただ,奇跡の残照. 緩やかに翳りゆく陽のように,優しく,暖かく,僕たちを照らしていたのか.

この手の中に残ったものは,悔恨と痛みだけではないから. これがきっと,僕が受けた奇跡への代償. 彼女が,あの姿でいられる僅かな時間に,なにもかも捧げたように.

奇跡の先には何があるのだろう.何もないのだろうか.それとも.
答は,まだ見つかっていない.


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