戦艦扶桑の生涯
〜 欠陥戦艦として生まれ、高速戦艦として死す 〜


 太平洋戦争において、戦艦扶桑ほど戦果に恵まれた戦艦はないであろう。戦艦という兵器が、航空機と航空母艦に主力の座を明け渡した太平洋に戦争において、2度も敵戦艦と砲戦を行った戦艦は本艦のみである。菊水一号作戦において悲劇の最後を遂げた戦艦大和は、確かに人類が作った最高・最強の戦艦であると言える。しかしその存在は、日米がしのぎを削った昭和17年から18年にかけて生じたソロモンの諸海戦において、何ら戦局に寄与しなかったのである。その点をふまえ、戦艦扶桑の奇異な生涯を追ってみよう。

◆苦難の新造戦艦
 戦艦扶桑は、金剛級4戦艦に続き建造された戦艦で、大正4年に扶桑級1番艦として竣工した。主砲には36cm連装砲塔6基12門を持ち、基準排水量は2万9330トンと、当時世界最大の戦艦であり最強の戦艦となるはずであった。しかし建造中に起きたジュットランド海戦の結果、水平防御力の欠如と速度性能の不足が指摘されるようになった。特に本艦のシルエットを特徴づけている第3・第4砲塔の問題が大きくのしかかっていた。艦橋後部、煙突を挟み配置された第3・第4砲塔のため、十分な機関スペースがとれず、本艦の最大速度は23ノットにとどまったのである。また艦の中央部に配置された弾薬庫により、弾薬庫の誘爆・轟沈という不安を抱えることとなったのである。

◆昭和の大改装
 新造時の不備を補うため、昭和5年から10年にかけて大改装が行われた。これにより主砲の仰角は従来の30度から43度に引き上げられ、射程距離が3万3千メートルまで延長されることとなった。また防御面にも注意が払われ、水平防御甲鈑とバルジの追加が行われた。くわえて従来の石炭・重油混焼罐から重油専用罐に変更し、機関出力を7万5千馬力と新造時の約2倍にまで高めた。しかし改装による船体重量の増加により、速度の増加は僅か1.5ノットにとどまったのである。
 この改装でも本艦の主砲配置は改められることがなく、大きな攻撃力と引き替えの脆弱な構造は変わらずのままであった。しかも艦速の不足から、二線級の艦との評価は覆ることはなかった。

◆第3砲塔大爆発
 日米交渉が行き詰まりを見せ始めた昭和16年9月7日、本艦の運命を決定づける重大な事件が生じた。この日愛媛県沖の伊予灘で射撃訓練を実施していた扶桑は、大音響とともに艦中央から火炎を吹き上げたのである。第3砲塔の天蓋を吹き飛ばし、バーベットも大きく歪ませたこの爆発は、第3砲塔の砲塔員、弾庫員、そして機関員など93名の死亡、26名の重傷者を出す大事故となったのである。この日の第3砲塔は、揚弾塔のリフトが故障気味で、応急修理を繰り返し使用している状態であった。その結果漏洩した電気がスパークし、砲弾の火薬に引火したことが原因とされた。かろうじて弾薬庫の誘爆はさけられたものの、第3主砲後部の機関部は全滅、速度は僅か8ノットにまで激減したのである。

◆高速戦艦として復活
 危惧されていた主砲配置による被害が現実のものとなり、急遽扶桑は修理のため呉のドックに入渠する事となった。しかし修理については意見が大きく分かれた。従来通り第3砲塔を修理する案と、いっそ第3砲塔をなくし、その分機関出力を増すべきだという案である。結局砲戦能力の減少は避けるべきとの案が大勢を占め、第3砲塔の修理が急がれることとなった。しかしバーベットまで歪んだ砲塔基部の修理は困難を極め、応急的に罐室のみの修理が進められた。
 そして12月8日、太平洋戦争が始まった。予想以上の真珠湾の大戦果、そして英東洋艦隊プリンスオブウエールズとレパルスの撃沈。航空機の攻撃力が改めてクローズアップされた結果、扶桑の修理にも大きな転機が訪れた。すなわち対空能力と速度性能の増加が求められたのである。旧第3砲塔基部には、新たに4室の罐室が設けられた。これにより機関出力は長門級をしのぐ12万馬力となり、基準排水量3万5200トン、最大速度28ノットの高速戦艦として生まれ変わったのである。

◆第3次ソロモン海戦
 修理・改装が完了した昭和17年9月、扶桑はソロモン海域での戦闘に参加すべく呉を離れた。そして10月11日のガダルカナル島夜間砲撃に参加、僚艦金剛、榛名とともにヘンダーソン飛行場に多大な損害を与えることに成功した。そして11月12日、今度は比叡、霧島と共に再びガダルカナル海域へ向かった。戦艦3隻を有する日本軍の攻撃力はすさまじく、混戦となったサボ島沖でジュノー、ポートランド、アトランタをはじめ4隻の駆逐艦を撃沈、サンフランシスコ、ヘレナを撃破する戦果をあげた。しかし比叡は舵を破壊され、翌日自沈することとなった。翌々日の14日、霧島、扶桑は重巡愛宕を旗艦とする砲撃隊主力としてガ島沖へ進撃した。ここで初めての戦艦対戦艦の夜間砲撃戦が行われることとなる。いち早く敵戦艦サウスダコタを発見したのは日本軍であったが、その前方を行く戦艦ワシントンに気が付くのが遅れた。そのためワシントンから奇襲を受け、霧島が大破する損害を受けた。しかし扶桑はいち早くワシントンへ砲火を向け、これを撃破する事に成功した。一方大破したサウスダコタは、巡洋艦と駆逐艦の雷撃により撃沈され、日本軍の辛勝で海戦は終了した。しかしガダルカナル島への増援は失敗、戦略的には日本の敗北であった。

◆スリガオ海峡に眠る
 第3次ソロモン海戦の後、修理・整備を行った扶桑であったが、昭和18年6月のマリアナ海戦では空母直援艦として、同様の改装を行った僚艦山城と共に出撃した。しかし対空戦闘に参加し、若干数の敵機を撃墜する戦果しか得られなかった。しかし空母瑞鶴を空襲から守り抜いたことは特記に値するであろう。
 昭和19年、戦場を走り回った扶桑にも最後が訪れた。10月22日より始まった捷一号作戦において、西村祥治中将率いる第3部隊として、扶桑、山城は重巡最上と駆逐艦4隻を率いて出撃した。24日、作戦開始後初めての空襲を受けるも、28ノットの高速と強化された対空火器のおかげで、扶桑は全くの無傷で空襲を乗り切ることが出来たのである。なお米軍の攻撃が徹底さを欠いたため、西村艦隊全体の損害も皆無であった。
 主力部隊である栗田艦隊とは逆に、全く損害を受けないまま進撃する西村艦隊であったが、その行く手にはオルテンドルフ提督の率いる第7艦隊の戦艦6隻が待ち受けていた。25日3時、魚雷艇による攻撃を28ノットの最高速度で振り切った西村艦隊は、そのままの最大戦速を保ちつつ戦艦6隻が待ち受けるスリガオ海峡へと突入した。戦艦6対2、巡洋艦8対1、駆逐艦15対4の劣性にも関わらず、西村艦隊は強引に中央を突破、敵戦艦部隊へ肉薄した。それまでに重巡最上、駆逐艦山雲、満潮が失われたものの、扶桑・山城の主砲は健在で、3時50分、ついに敵戦艦への砲撃を開始した。山城・扶桑の砲撃は苛烈を極め、カルフォルニアを撃沈、テネシー、ペンシルバニアを中破に追い込み、ミッシシッピーにも損害を与えた。しかし砲門数の劣性は覆すことが出来ず、4時6分メリーランドの放った砲弾が扶桑に命中したのを皮切りに、次々と巨弾が命中しはじめた。それでも全ての砲塔が沈黙するまでの間、テネシーに8発、ミシッシピーに3発の命中を与えていたのである。4時28分、弾薬庫に達した火災により扶桑は大爆発を起こし、波間に消えていった。1200余名の乗組員のうち、米軍に救助された人数は僅かに86名だったという。

(フィクション)


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