祝詞(イワイノコトバ)
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彼は師走に入ってから非常に不機嫌だった。
理由というものが非常に個人的かつ子供っぽいもの故に表面化する事も彼の矜持が赦さずこうして年を明け、
すっかり新年の浮かれ気分など払拭された今になってもそれは鬱々と続いている。
鬱々。まさにそう表現してもいい状況で、最初は苛々と触れるのが恐ろしいという険しさだったが今や
触れると彼のどんより曇った気配に浸食され触れたものも彼のように腐ったようなものになってしまうの
ではないかという別の意味で近寄りがたい気配を放っている。
苛立ちを表に出せず腐らせた結果。
とはいえ誰もそんな彼に同情する者は居ない。
寧ろ、そうやって一人思い煩わせずさっさと胸の内をある人物に吐き出してしまえとか、その人物が
どうにもこうにもの奴をどうにかしろと、彼の周囲の人間も半ば腐り始めていた。
悪循環がこの良民たち通う学園の三年理乙やら北寮やらでずっと蔓延していた。
そのうち他のクラスや学年、寮にまで感染しかねない状況で……。
とある青年はそんな風景を見て溜息をつく。
すっかり枯れ葉もそこら辺に転がらなくなった淋しげな地面の上に箒を立ててその上に顎を乗せる。
彼の視線の先には問題の人物。
「どうして『ああ』なんでしょうねえ」
ふと漏れる呟きは愚痴に近い。
「元々『ああ』だと思うけどねえ」
びくりと青年の肩が跳ねる。振り返りほうと安堵の息を吐き少しだけ目を鋭く細める。
紬の上に半纏纏い首には駱駝色の襟巻き(マフラー)の大和民族には到底見えない異邦人の風体の青年。
「水川先生……びっくりするじゃないですか。急に声かけないでくださいよ」
「ぼーっと僕以外の男見つめてるのが悪いと思うけどねえ」
飄々とした調子で言う相手に寒気で赤く染まっていた頬を尚も赤らめる。
「僕には最初からあの子は素直じゃない可愛くない子だと思うけど」
「……可愛くないと言う部分は頷きますが、自分の欲求には真っ直ぐな人だと思っていましたが」
「ふうん? 要君。君、金子君と何かあった?」
「っ?!」
それは……、と口ごもる。
一年半ほど前に怪しげな店で怪しい薬を飲まされてよもやという事態に追い込まれたことがあった事があった。
その後も要にとっては忘れたい写真で関係を迫られたこともあった。今になって思うと非常に自分の欲望に忠実……
というよりわがままな良家のお坊ちゃんらしい行動だったと要は思っている。
「まあいんだけど。金子君の不機嫌もう一月だろ?」
「ええ、十二月に入ってしばらくしてからですからもう一月になりますね」
「……で、原因とか知ってる?」
「さあ? さっぱり」
だよねえ、と懐手のまま抱月は仰のく。
高い空。薄い青。雲が多い。冬特有の空。二人の周囲も吹く風も冷たく、周囲の景色も淋しい。空まで同調するように寒く淋しい。
「満たされないのかねえ」
「はい?」
「金子君達の同級の子も最近苛々してるだろ? ついでに土田君も彼にしては珍しく焦っている」
「え? 土田さんも?」
「気付いてなかった? 焦っているというか、落ち着きなくしてるね。とてもわかりづらいけど」
「……さすがは作家さんですね」
凄い観察力だと皮肉げに言うと、抱月は要の肩を抱く。
「嫌だなあ、嫉妬? 嬉しいねえ」
「先生!! な、何してるんですか!! ここ学校!! まだ、昼間です!!」
「じゃあ、夜ならいい?」
「そういう問題じゃないです!!」
こんと軽い音が高い空に響き渡る。同時に抱月の悲鳴。
「非道いよ!! 幹彦助けて!!」
「こういう場合先生は助けてくれません!!」
こんこんと尚も抱月の頭を叩く要。喧嘩しているのかじゃれているのかわからない。だが、とにかく二人の
心の中で誓った契約通り三人分いちゃついているこの常春リーベが金子光伸の不機嫌の原因の一端であることなど全く気付いていない。
もっとも、そんなこと口にすら出さない金子光伸のせいで知らないだけなのだが……。
そんな、いつも仲睦まじく日々を過ごしている二人を見つめる視線が一つ。
きりりと唇噛みしめ暫し見つめていたがやがて唾を吐いて乱暴に背を向けてその場を立ち去る。
その人こそ先程の二人が話題に上げていたその人金子光伸君であった。
(まったく……いつもいつもはた迷惑にいちゃついて……)
光伸も周囲から嫁と囃し立てられている土田憲実といつも目も当てられないほどいちゃついているのを棚に上げて苦々しく吐き捨てる。
前から、胡散臭い外国人にあの綺麗で可愛いメートヒェンをかっさわられたと憎々しげに二人を見つめていたのだが、
この一月否もう少し前から徐々にだが非常に苛立ちと共に見るようになった。
苛立ちというより羨ましいという気持ちで。
最初は乱暴に砂を蹴って歩いていた光伸の歩調は次第に勢いを失い今やとぼとぼと歩いていた。
そして停止。
深く溜息をつく。
「彼奴に求めるのがいかんのだろうな」
とは思いつつ。
「……あれだけあいつ等が盛り上がっているのだから気付いてもいいだろう」
力一杯地面を踏みしめる。
途端足から全身に痺れのような痛みが走る。小さく呻く。辛うじてしゃがみ込みはしなかったが、生理的に出た涙を
溜めながらここには居ないある人物に恨み言を言った。
何もかもおまえのせいだ。
土田。
事の始まりは一昨年の秋。十月の終わり。
卒業生ということで何故か教授達すら抱月の来訪を黙認している。元は櫻、今はいつの間にか生えた薔薇が
絡まり薔薇の木の下でぼんやり、遊び相手を待ちうけている抱月がその日は妙に浮かれていた。
掃除にやってきた要にいきなり抱きつき、何かを叫んでいる。
……といっても、結構声が通り音量自体大きい彼の遠慮ない声は授業の合間にくつろぐ学生達にもしっかり聞こえてしまった。
その内容は、既につきあい始めて数ヶ月たつ美形同士のリーベの外国風かつ真新しくお洒落に聞こえる会話。
「要君!! 見たよ!! 見たよ!!」
「は、はいはい……わかりましたから」
「ありがとうね、ありがとう!! あんなに大きなケーキとお団子の山、すっごくうれしいよ!!」
「って、こんな所でそういうことしないで下さい!! 人に見られる!!」
事実既に窓から大勢の学生達に見られているのだが、この二人は全くそれに気付いていない。
教室ではプレゼント? と、話の内容に色々詮索をいれはじめている。
「えー!! いいじゃない、喜び事だよ!!」
「そうでも!! 大体先生の誕生日ってだけで!!」
誕生日? と、教室がざわめく。
誕生日にプレゼント? けったいなとか、少しばかり西洋の事情を知る者が自慢げに西洋では誕生日に
贈り物をするのだと蘊蓄を垂れ始める者も現れる。
「誕生日……」
ただ一人席に着きその会話を聞いていた憲実がぽつりと呟いたのを光伸は見逃さなかった。
「どうした、羨ましいのか?」
要から贈り物が欲しいのか? という言葉を込めて聞いたがいや、と予想通りの答えが返ってきた。
その返答にその時の光伸は内心嬉しくもあり半面、苛立つような傷ついた心持ちになったが、まだその時は
彼らと憲実そして光伸の間に横たわる感情の問題として受け取っていた。
要達を除いて光伸と憲実の問題として取っては居なかった。
そう、単に西洋かぶれの行事をあの莫迦っぽくすら見えるお熱い恋人同士を多少莫迦にした視線を送るぐらいのことだった。
だが、それから約一年後、同じような光景にすぐ傍で憲実と遭遇してしまってからは事態が変わった。
「おい、また今年も誕生日か」
「あ、金子さん」
土田さんもこんにちはとホッとしたように挨拶する。くっつかれて暑苦しい時期は過ぎたがそういう反応をするのは
彼が公衆の面前でいちゃつくのに未だに抵抗があるからだろう。
もう付き合ってから一年以上たつのに。
「うわっ、お邪魔虫」
「お邪魔というが貴様は部外者ではないか」
「でも、元関係者だよ。教授達も小使い長さんも何も言わないし」
唸る。どうしてこいつに周囲は甘いのだ。未だ離そうとはしない要からしてそうだ。
内心、憲実のことを思うと知らず焦ってしまう。離れろ、と。
「それにしても、今年もって去年僕たちが御祝いしてたこと知ってたの?」
どうして、と首を捻る抱月に光伸は鋭い視線を送る。言えるか。言えば要がいたたまれない気持ちになるのは決まっている。そうなると土田が……。
「翌日浮かれてただろ、昨日お誕生日で要君に甘いもの一杯もらったんだよって」
「え? そんなこと僕言ったっけ?」
言ったと憮然と言って反向を向く。間違いなく嘘だ。翌日どころか一週間浮かれてはいたが、そんな話は聞かなかった。
「飽きんな」
「飽きる事じゃないでしょ。毎年年を重ねていく。一年生きていてくれてありがとうって感謝する日なんだから。ね、要君」
ええ、と要は頷く。
「あ、勿論僕だけ祝ってもらってるわけじゃないからね。八月の要君の誕生日もちゃんと御祝いしてるんだよねー」
嬉しそうに笑う。それからは惚気宜しく、その時の話になった。だが、抱月が言った最後の言葉が光伸を捉える。
「純粋に生きていてくれてと思うけど、同時にね生きているからこそこうして要君の傍にいられる。その逆もそう。
僕らが一つ歳をとっただけの時間を一緒にいられたということはとても大事なことだから」
「……」
この時悟った。
要とこの巫山戯た怪しげな男の絆の深さを。それは、どれだけの影響を光伸にそして、憲実に与えたか。
ある種の諦念。
それが歪む。おそらく歪むという表現が適切だっただろう。曲がったとか軌道修正とかずれたとかそういう表現ではなかった。
光伸の気持ちが確かに真っ直ぐではなかった故に。
しこりのようなものが光伸の中に生まれてから一月もたたないある休日。光伸は珍しく二人揃って買い物をする要達に偶然であった。
質素倹約を絵に描いた要がまず踏み入れることはないだろう、日本贔屓の抱月が進んで入るとは思えない西洋骨董品店で。
「珍しいな」
言葉通り興味本位でつい声をかけていた。
「おやおや……君とは面白い状況で会うね」
「面白い?」
意味深な言葉に片眉が跳ね上がる。つくづくこの男の言いぐさには気に触る。
抱月の方は気にした風もなく相変わらず飄々としている。が、少しだけ雰囲気が違う。そう、声が若干低いような気がする。
巫山戯たところがない飄然としているが真剣だと気付いたのは神妙な表情で抱月の隣りに立つ要と見比べたからだ。
二人して様子が可笑しい。
買い物にしては浮かれた様子がない。
「僕たちの大事な時にね」
「大事な時?」
「そう、実はねもうすぐある奴の誕生日でね。僕と要君はそいつの御祝いを物色していた所なんだ」
「……ほう、おまえ達以外でそんなこと祝う奴がいたのだな」
「なんだい、人を自分たちしか見えていない盲目的な莫迦恋人同士なんて思っていたわけ?」
「……」
「嫌だねえ」
額を押さえながら言った後、要に目配せする。先程の冗談を言う彼ではなく初めて見るような深刻な顔に怯みそうになった。
暫しの間の後、要が頷く。
「君もあの事件に関わった者だからね、だから話してあげるよ」
その後聞いた話には本気で驚いた。
要にしてもそして薄々気付いていた抱月にしても一人の男に何らかの形で惹かれていたことは気付いていた。
この話を聞いて二人の絆のどこかに常に幹彦の存在があることを悟った。
抱月達は言った。
直に幹彦の誕生日が来る。
だから二人で御祝いしてやる、と。
可笑しいと思ったが、真剣な顔して最後には幸せそうに笑った二人に何も言えなかった。
狂っていると言葉にならなかったのか、あまりにも幸せそうで言うだけばからしいと思ったのか。
ただ、茫然と常軌を逸した二人をはいそうですかと見ているしかできなかった。
あの月村も誰かに愛され、こうやって誕生日を祝ってもらっている。死んでも尚。それが悔しいが羨ましいと思ってしまっていた。
自分も、と。
別れ際。
「そういえば来月君の誕生日じゃなかったけ?」
「ああ、そうだが良く知っているな」
「まあね、そういうことに関しては鼻が利くから。で、土田君に御祝いとかお強請りしたの?」
「なっ!!」
思わず後退る。要が抱月を窘めてくれたのが多少助かる。
「いやあ、金子君って結構積極的だし我が侭だし『土田、俺の誕生日を祝え』とかいってそうだなって」
「……だからいつまでたっても売れない駄作家やっているんだ」
「何だって?」
「人を間違った見方してもらいたくない、と言っているんだ。そんな事……するわけなかろう」
一瞬言葉に詰まりそうになる。
そんなこと出来るわけない。言いそうになった言葉。
要と憲実がという可能性はこの間の抱月の誕生日の件で絶望的に低いと悟った。それでも憲実は要を思っている以上、
肝心なところで自儘に出来ない自分が居る。
俺と奴の関係は、リーベなんてものじゃない。確かに抱き合うことも、いちゃつくことも、リーベと呼ばれることもあっても。
「先生……金子さんに失礼ですよ」
「そうかな……。でも、金子君ってそういうのに飛びつきそうじゃない。西洋式だとか言ってやりたいことしてそうだと思ったし」
「なんだと」
「それは……」
「メートヒェン!! ……とにかく、俺はそういうのに興味がない」
そういって失礼と非道く不機嫌な調子の言葉を置いて別れた。
それからだった。
自分の誕生日が非道く気になりはじめたのは。
結局、自分の言葉通りその年の誕生日は何事もなく過ぎていった。
何も言わないのだから当然で、また一昨年、去年の一件から憲実がそういうことを光伸に対して思いつくこともない。
何もないのは当たり前なのだが、それでも苛々した。
土田憲実という男が、普段気配りのある男であってもこういう事には全く無頓着、無反応、無興味とにかく無、
無づくしの男であるのだから悟ってもらおうとか思う方に問題がある。
「だからといって誕生日を祝え等言えるか」
ごく普通に、いつもの我が侭通りに近い内に誕生日があるから祝えと言えばいいものだと思う。誕生日の祝いに
贈り物をするのがリーベ間の習わしという訳ではないのだから。冗談のつもりで、リーベの俺に贈れと言えば目的は達する。
「……」
全く無興味。
少し前までは、抱月に負けず要に贈り物の一つでもしろと、意識は要と憲実で自分は憲実を応援する立場として
立ったはずが今や二人の関係で考えている。
気がつけば光伸は憲実から誕生日祝いをして欲しいと思っていた。
告白などする気は無いが憲実のことを好いている彼なら自然に生まれる欲求だろう。
それを想い丸ごと誤魔化すようなことをしているから歪む。
歪んでいるから、想い以外のものすら歪みを生じていく。
祝って欲しい。
だが無理だ。
そんなことをずっと悶々と悩み続けて今に至る。
周囲が触れると腐臭でこちらもと思うほど腐るのも仕方がない。
再び光伸は歩き始める。
実は彼は自分が立ち止まったり歩いたりその速度が不安定だったりしていることに気がついていない。ずっと、憲実は自分の
誕生日を祝ってくれないのだろうと考え、そんなこと無理だと否定を繰り返してどうして自分はそんな奴を好きになったのだろう
と自己嫌悪に陥る。そんな繰り返しをしているから気づけない。
それ故に、いつの間にか憲実が光伸の傍に来て何度か声をかけていたことも気付かなかった。
憲実が近くにいる。それに気付いたのは憲実に肩を叩かれてだ。声をかけても気付かないからだ。
叩かれ、反射的に悲鳴を上げ、相手が憲実だと悟ると慌て出す。
「金子……大丈夫か」
「大丈夫とはどういう意味だ?」
「最近、様子が可笑しい」
「そんなことはない」
機械的に応えるようにありふれた本心に近いのかもよくわからない答えが口をつく。
真っ白で何を言っているのかもよくわからない。ただ、憲実がこの状況に来たことはびっくりする以上の衝撃だった。
「用は何だ?」
「?」
「用があるから呼び止めたのだろ?」
「いや……」
困ったように一瞬口ごもる。
「だから……様子が変だと」
刹那息が止まる。そうだ、今奴はそういったではないか。自分が如何に上の空で、それが憲実に対して囚われていること示していると思い知る。
こんなに俺は土田に振り回されている。
なのに。
彼奴はそうじゃない。
知らず唇を噛む。
それに気付いた憲実がそれを静止するように何か言っていた。だが、もう聞こえない。
土田が俺のことを要と繁みたいな関係の気持ちで見ているわけじゃない。
土田は優しいから。
度量が大きいから。
惨めだと思う。
そんなことあの時想いを告げられなかった時点で自覚済みだと思っていたが、改めてそう思うと苦しい。
息だって出来ない。
嫌になるほど土田憲実という男に囚われていることを……思い知る。
金子と呼ばれたのを頭の何処彼感じた。遠い。
とても、遠い。
最初から遠かったのに。
一番傍にいても遠かったのだ。
「大丈夫か?」
肩に手が掛かったのに気がついた。
反射的にそれを弾いた。やはりどこか遠くの方で息を呑む音を聞く。
なんだか、どうでもいいや。
腹が立つのかそれすら通り越したのかよくわからない。
わからないまま光伸は叫んでいた。
「貴様のせいだ!! 貴様が鈍いから、悪いのだ!!」
金子何をと彼らしくもなくうろたえている。
様を見ろ。笑いが勝手に零れる。
「要達があんなに誕生日で盛り上がってるのに、おまえはどうして俺の誕生日に何もないのだ!!」
え……とびっくりした声が聞こえた。
驚きで黒目勝ちの目を一杯に見開いた憲実の声は酷く滑稽で、余計に笑えてきた。
もう、どうだっていい。
憲実のことも、誕生日も、この想いも……。
**後編に続く**