銀の盃 11


バレンタインデー。

この国に、それが普及したのは、ごく最近のことだ。
大元をたどれば宗教的なものに行き着くのかもしれないが、ここでは「女性が男性に、菓子やプレゼントを 贈って、愛の告白をする」イベントに、成り下がっている。

そもそも、菓子という甘いものを好むのは、男性より女性に多くみられる傾向だが、逆であれば 菓子を選ぶのも難しい(場合が多い)から、そうなっているのかもしれない。
ともかく、バレンタインデーというものは、憲兵隊の中にも普及していた。

第3小隊の男性の中で、一番多くの贈り物をもらえるのは、クリストファーである。
ウィルヘルムが独身であればまた話も違ったのだろうが、(現に彼が独身時代は、本当に すごい量のプレゼントを貰っていた)今は、クリストファーで。
性別を考慮せずにランキングをつけると、1番はシルバーだ。

最初の年、酒好きのシルバーを気遣って、皆ブランデー入りのチョコレート等を用意したのだが、 「どうせ貰えるのなら、酒入りの菓子より、酒自体の方がいい」と本人が言ったため、 それからは毎年、ワインやらブランデーやら、酒の瓶で、シルバーの家は溢れる。
ありがたいことだ、と本人は言っている。
なお、シルバー自身は誰かに贈ろうとしたためしは全く無く、
隊長になってから、ねぎらいの意味を込めて、男女問わず部下に、小さいプレゼントを贈る程度だ。
それでも、110人ほどいる部下全員に贈っているのだから、随分な出費だと言えるのだが。

暦を見て、そろそろその時期だな、と思いシルバーは、
後で幾らでも貰えるだろうに、自分で赤ワインを、1本買った。
外は雨が降っていた。ちょうどいいとシルバーは思った。

***

昼間、少し席を外すとリッテルにだけ告げて、シルバーは軍服のまま、1人で出かけた。
寂しい集合墓地に、シトシトと雨が降る。
傘も差さず、濡れたまま、シルバーは1つの墓石の前にひざをつく。

「・・・お前は、甘いものが好きだったよな。
だが、私は菓子が食えないから、これで我慢してくれ。」

そうつぶやいて、墓石にワインをタラタラとかける。
美味いだろう?とひとりごちて、目の前の墓石を目を細めて、眺める。
誰もいない集合墓地に、雨の音と、シルバーの声だけが響く。

「なぁ。・・・・兄弟というのは、知らず、似るものなのだな。
お前は昔、”もっと自分自身を大切にしなくちゃ!”と言ったが、
・・・お前の兄も、同じことを、私に言うよ。」

墓石に刻まれた名前は、
”アレス・リッテル  享年20歳”

***

ノエル・シルバーは、名前というものに特別な思いを持っている。
同時に、名前に対して何とも思ってない、という、矛盾したことも事実である。

ノエル・シルバーは、その名の両方が、本名ではない。
では本名は何かというと、それも知らないので、その名が自身を表すものだと思うしかない。
人間は大体、3、4歳の頃から断片的に記憶があるものだが、ノエル・シルバーの場合、 一番古い記憶が、9歳の頃である。
それ以前を覚えていないのは、何か理由があるのだろうと本人は思っているが、 記憶が無かろうと、大したことではなさそうなので、思い出そうとも、無くなっている理由を 探そうとも思わない。

9歳の頃、幼年学校の校長をしている男性に会った。
優しそうな、初老の男性だった。
路地裏に転がっていた自分を、拾ってきたそうだ。
これは、後で聞いた話だが。もちろん、校長本人はもっと違う言葉で告げている。
前から、こういった身寄りの無い子供の親探しをしている人物らしく、 しばらくしてから、ノエルにも、シルバーという家の、養子になる話が持ち上がる。
ちなみにノエルという名は、自分の名が言えなかった「少女」に、校長が、”幸福”という 意味の名を与えたものだ。

ノエルは、その日待っていた。
シルバー家の人々が、自分を迎えにきてくれるのを。
もちろん学校などには行っていなかったので、言語能力が遅れていたノエルだったが、 校長と話しているうちに、随分言葉も覚えた。
ノエルがこの後、誰と話そうと軍人口調が抜けないのは、そういう理由がある。
雨の中、ノエルは待っていた。
だが、迎えはこなかった。

後で聞いたところ、雨で地盤が崩れ、不幸にも、シルバー家を乗せた車が、 事故に遭ったらしい。
「また違うひとを探すから」という校長に、ノエルは「いいよ。」と告げた。

「いいよ、なくていい、おや。」

元から無ければ、失わずに済むから。
大切なものを手に入れてから、それを無残にも奪われるというのは、
何と悲しいことか、と、憲兵になってからシルバーは、強く思う。
シルバー家の弁護士が、契約だからとご丁寧に、名前だけを自分にくれた。

本当の名は知らない。
校長のくれた、幸福という意味のノエルという名前。
会ったこともないのに、こんな子供に家の名をくれたシルバー家の人に感謝して、 ノエル・シルバーは、自分の名を誇らしく告げられる。
でも、一番のきっかけは、やはりこれだ。
初めて出来た友人アレスが、”君の名前は、とても綺麗だ”と言ってくれたから。


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