銀の盃 12


<3>

ノエルは状況がよく理解できなかったらしく、そのままずっと動かなかった。
数秒後にアレスが顔を離すと、ノエルは言った。

「な に を す る ・・・。」

その声に感情の起伏はない。アレスは少し心配になって、尋ねた。
「君、キスが何を表すか、分かってるよね・・・?」
「”愛情表現”だろ。」
ノエルは辞書のごとく答える。その言葉を聞いて、一応安心したアレスは、続けて尋ねた。
「しても怒らないってことは、君も僕を悪く思ってない、と、解釈してもいいのかな?」
ノエルは言った、「お前の言っていることが分からない。」と。

アレスが、ノエル、いや、”同級生のシルバー”と、話すようになったばかりの時に、 ノエルがよく口にしたセリフだ。
「あぁ、君は僕の気持ちに気がついてなかったのか・・・。」
とアレスがつぶやいたので、ノエルは何のことだ、と聞く。

「君にひとつ聞きたい、真剣なことだから、ちゃんと答えてね。」
とアレスは言った。そして続けた。
「僕は、君が好きだ。君を異性として愛している。君は僕が好きかぃ?
友人としてじゃなく、男として、だよ。」
ノエルは、じっとアレスの顔に向けていた目をふせて、ゆっくりと答えた。

「分からん・・・。」
どうして!とアレスは叫ぶ。ノエルは立ち上がり、くるりと彼に背を向けて、言った。

「私は何も愛したことがない。親も兄弟も、小動物や、草花さえ。
私は愛とは何か、分からない。これだけはいくら本を読んでも、理解できなかったのだ。
お前といると楽しいし、気分ははなやぐ。でも、それが”愛”かどうか、断定できんのだ。 すまない・・・。」
ノエルの声がゆらいだ。しばらくの沈黙の後、アレスはノエルの背中に向けて、言う。

「僕のこと、嫌いになった・・・?」
少しの間があってから、ノエルは答えた。
「昨日のお前にも、今のお前にも、同じ感情を持っている。」
そうか、とアレスはつぶやく。
「そろそろ昼休みが終わるぞ、はやく戻れ。」
ノエルは振り返って、アレスの顔を見ながら言った。分かったよ、と少年は答えた。
彼の目には、なんとも表現しづらい、微妙な表情がうつった。

苦痛に耐えながら、それでも楽しそうに笑っている・・・。


次の日、まだ少し熱っぽかったが、ノエルは登校した。
自分のクラスに入ると、水を打ったように静まり返った。
これはいつものことだ。ノエルは自分が避けられていることを知っていたから、 迷惑にならぬよう、端の席に座った。
昨日、どこまで授業が進んだか知りたかったが、クラスメイトに尋ねても、 誰も答えてはくれないと分かっているので、聞かなかった。
何故こんな状況に、ノエルが置かれているのかというと、3組にある ”派閥”のせいだった。
3組はフリードリッヒ・ハウプトの支配下におかれていると言っても過言ではない。 ハウプト家はいわゆる大地主で、この学校の役員も兼ねていた。

ノエルは、この状況がハウプトのせいだと分かっていたが、彼を恨んだり は、していなかった。むしろハウプトに同情していた。
”私がいるから、次席にもなれない、可哀想な奴。”

1時間目が終わった休み時間に、アレスがやってきた。
ノエルは、あまりアレスに自分のクラスに来てほしくなかった。 彼を、このギスギスした空間に、いさせたくなかったのだ。
アレスは、言った。
「今日はどう、大丈夫?」
どうにかな、とノエルは答えた。アレスは紙を出して、
「昨日やったと思う所、うつしてきたから、見てよ。明日試験だから、ノート貸せなくてごめんよ。」
と言った。ノエルは今まで、明日が卒業前の最後の試験だということを忘れていた。

「あぁそうか、試験だったな、明日。・・・お前、これを、わざわざ私の為に?」
ノエルは尋ね、紙を指した。アレスは答える。
「そうだよ。君、自分からノート貸してって、言いそうにないからさ。」
そして彼は、にこにこと笑った。確かにその通りだ。
「じゃあね。」とアレスは言って、手を振りながら去っていった。彼の姿がすっかり消えてから、 ノエルは、手の中の紙を眺めた。一番下に、授業内容ではないことが書かれていた。

”明日の試験、僕と賭けをしないか?詳しくは今日の放課後、君の部屋で話すよ。”

その日の夕方、ノエルの部屋に、アレスはやってきた。
「紙、見てくれた?」
「あぁ。お前はまめなノートの取り方をしているんだな。」
その言葉を聞いて、アレスは言った。
「そのことじゃなくて、賭けのこと。」

「あいにくだが私は、賭けができるほど金を持っていない。
お前みたいに、裕福な家があるわけではないからな。」
「君、誤解してるよ。別にお金を賭けるわけじゃない。」
「では何を賭けるのだ?」
ノエルが聞くと、アレスは答えた。
「“負けた方が、勝った方の言うことを、何でもひとつきく。”ってやつさ。」
「・・・。」
相手が黙ったままなので、アレスは言った。
「どう?」

ノエルはやっと口を開いた。
「人間、できることとできないことがあるだろう。何でもというのはな・・・。
いつもの私なら、二つ返事で受けるところだが、お前に、”もっと自分を大切にしろ” と、言われたからな。」
それを聞いてアレス、
「まぁ待ってよ。実は、もし僕が勝ったら君にしてほしいことは、 もう決めてあるんだ。賭けに乗るか乗らないか決めるのは、それを聞いて からでも、遅くないでしょ?」

「そうだな。で、お前が勝ったら私にしてほしいことというのは、何だ?」
ノエルが尋ねると、アレスは深呼吸をしてから、言った。
「僕が勝ったら、僕とまる一日、デートをしてほしい。」

ノエルはまた沈黙した。
「・・・駄目?」

しばらくしてから返ってきた言葉は、「・・・・・辞書引いていいか。」

アレスはちょっと驚いてから、いいよと答えた。ノエルは、辞書のページをめくった。
「”男女が日時を決めて会うこと”・・・お前は、こんなことがしたいのか?」
学校の図書室には恋愛モノの本は無かったらしく、ノエルは”デート”の意味を 知らなかったようだ。返答が遅かったのは迷っていたからではなく、単に意味が 分からなかったに過ぎない。
こんなことがしたいのか、と聞かれて、うん、とアレスは答えた。
ふぅんとノエルは言ってから、続ける。
「そんなことでよければ、受けてやるが。」
「本当!?」
アレスははしゃいだ声で言った。ノエルは、彼が何故、こんなにも喜ぶのか分からなかった。
アレスは聞く。

「君が勝ったら、僕に何をしてほしい?」
ノエルは即答する。
「ウィスキーの小瓶を一本買ってくれ。」
いいけど、飲みすぎないでねというのが、茶色の髪の少年の言葉。

***

翌日
朝起きて、ノエルは自分が、かなりの高熱を出していることに気づいた。
”今日は大切な、奴との賭けの日・・・休むわけにはいかん・・・。”
寝床からはい出したはいいが、頭がくらんで、立っていられない。
それでもノエルはフラフラとしながら、部屋を出ようとドアを開けた。
その時、もっと自分を大切に、というアレスの言葉が、ノエルの頭を回った。
ノエルはドアを閉めた。そしてベッドに倒れ込んだ。
”不戦敗だな。”

試験を終えてからアレスは、ノエルに出来はどうだったか聞こうと、 3組にやってきたが、ノエルは居なかった。もう寮に帰ってしまったのか、 と思い、アレスはノエルの部屋を訪れる。
彼の目の前には、高熱で顔を赤くし、額に汗を浮かばせて苦しんでいる、ノエルがいた。

ノエルが目を覚ましたのは、半日たってからだった。ノエルは、すぐにアレスと目が合った。
「お前・・・。」
そうノエルはつぶやいたが、その声はつぶれていた。熱の影響が喉にも 出ているのだ。
アレスは尋ねた。「気分はどう?まだ苦しい?」

ノエルがちょっと頭を動かすと、額にのせていたタオルがずり落ちた。
アレスはそれを拾って、再び、ノエルの額に乗せる。
「寝てたほうがいいよ。・・・僕、いないほうがいい?」

アレスは言って、立ち上がった。ノエルは手を伸ばして、アレスの頭を、自分の元に引き寄せた。 こうしないと、自分の声が相手に聞こえないからだ。ノエルは、かすれた声で言う。
「できれば、ここにいてほしい・・・。」

体が衰弱している為か、ノエルは今、とても心細かった。
誰かにそばにいてほしいと、初めて思った。
ノエルの言葉を聞いてアレスは、分かったと言って微笑んでから、再び腰をおろした。
ノエルが眠りにつくまで、ずっとアレスは、ノエルの側に座っていた。


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