銀の盃 14


殴られた拍子に口の中を切ったらしく、唇の端から少しの血を流しながら、 それでもクリストファーは、にやりと笑って言うのだ。
「どうした、嫉妬か。」
彼の言葉を聞いて、また頭に血が上ったウィルヘルムは、再度相手に掴みかかる。
そこに、副官を引き連れたシルバーがやってきたので、ウィルヘルムの身体は瞬間的に止まった。

「何をしている。詰所内で私闘か、いい度胸だ。」
もちろんこれは皮肉だった。何を理由に揉めているのか、シルバーは知らなかったが。
ただ彼らが、長年付き合ってきた友人同士だと分かっていたから、 どうせくだらないことで喧嘩しているのだろうと思って、言ったまでだった。
落ち着いた声でそう告げる黒髪の憲兵に、ウィルヘルムは相手を放してから、 こう尋ねた。

「隊長!クリストファーの奴が昨日、貴方に不埒なことを働いたと聞きましたが!」

彼の声はまさに、”憤っている”というにふさわしい。
シルバーは、ひとり興奮している青年を怪訝に思いながら、少し考え、ごく普通の調子で答えた。
「不埒な・・・?あぁ、別れ際に、奴がキスをしてきたことを言っているのか。」
「キッ・・・!?」
大きな声をあげて驚いたのは、リッテルである。寝耳に水とはこういう事を言うのだろう。
部下2人が(どうやら殴り合いの)喧嘩をしているという場面に遭遇したと思ったら、 隊長は、何だか昨日キスされたなどと言っているし。
少し状況を整理する時間が欲しいと、リッテルは思った。
が、無常にも話はどんどん進む。

「本当なんですね!?あぁ・・・すみません。」
ウィルヘルムの言葉はおそらく、友人に代わって無礼を詫びているつもりなのだろうが、 それは必ずしも、本人の為になるとは限らない。
おそらくこの時クリストファーは、別に謝って欲しくは無かっただろうし。
彼は「非礼」を詫びる気は無いだろう。
そのくらい、シルバーとて理解できている。

黒い髪の憲兵は、座り込んでいた中佐の腕を引いて立ち上がらせてから、
全員に向けて、こう声を発した。
「何だ、殴り合いの喧嘩など・・・子供でもあるまいし。・・・まぁいい。
とにかく、これ以上くだらぬことで騒ぐのはやめろ。時間の無駄だ。」

その声は冷たかった。青年たちの胸に、厳しく響いた。
第3小隊の隊長が今、くだらないと称したのは、紛れも無く、
ひとがひとを想うという、「こころ」の事。
それをこの人は、真っ向から否定した。存在自体を否定した。
そんなものは要らないと、告げた。
彼の人を想う、病にも似た感情を持っている男は、衝撃を受けた。

シルバーが、喧騒の理由を「知らない」から、そのような答えになったわけでは無い。
己がその当事者だから、昨晩の出来事を利用して、切り捨てたのだ。
此処にエドワルドは居なかったが、もし居たとすれば、ただ無言で青い顔をしただろう。
想いなど、いらない。必要ない。
そう、明確な態度を示した。
それはそうだ。彼らはシルバーにとって、頼りになる「部下」なのだから。
それ以外のものになってくれと、いつ告げた?

俗な言い方をすれば”モーションをかけてきた”1人の男を利用して、
誰に言われるより先に、シルバーは想われることを、拒絶した。
立ちすくんでいるのは、もしやお前にもそんな気があったからか。と、
シルバーは己の副官に向けて、心の中でそう、つぶやいた。
隊長はクルリと方向転換をして、ひとりで部屋を出て行く。

リッテルがすぐに追いついてこないことが、自分の考えが間違いでなかったことの 裏づけになり、シルバーはそれが、
・・・・ひどく、悲しかった。


(いらない、いらないんだ!
大事なものを失って悲しむのは、たくさんだ!
だからもう、何も受け取らないことにしたんだ!)


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